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【その時の今日】戦後の米国の矛盾措置が独島葛藤に火をつけた

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版



1904年9月、日本は近く迫ったロシア・バルチック艦隊との決戦に対応し、鬱陵島(ウルルンド)に2つの望楼を建てた。 翌年1月、日本は約2年間にわたる漁夫1人の無断居住と操業が国際法上の占領に該当するとして、独島(ドクト、日本名・竹島)を韓国から奪った。

「日本は暴力と貪欲によって略奪したすべての地域から追放されることになるだろう」。太平洋戦争がその終焉を告げる頃、戦後の日本領土に対する連合国の基本方針が明らかにされたカイロ宣言(1943年12月)を通じて、米国・英国・中国は日本の領土を1868年の明治維新前の規模に縮小すべきだと決定した。


この宣言の精神が守られていれば、独島をめぐる韓日間の領土紛争はなかった。 しかし米国は韓国占領直後、独島を韓国領に含めたにもかかわらず、対日占領政策を繰り広げながら日本の領土と認める矛盾した措置を取り、両国間の葛藤に油を注いだ。

「日本の漁業および捕鯨業の許可区域を設定し、日本の船舶および乗務員は今後、北緯37度15分、東経131度53分にある独島の12海里以内に接近できない」。46年6月22日、訓令1033号に基づき独島水域での日本の漁労活動を禁止する「マッカーサーライン」が引かれて以来、米国が対日講和条約のために47年3月から49年11月まで作成した5回の草案すべてに「独島は韓国の領土」と明示された。

「リアンクール岩礁(Liancourt Rocks、独島)に対する日本の主張は古くて妥当性があると判断され、この島に気象観測所とレーダー基地を設置する安保的考慮が望ましい」。49年11月、マッカーサーの政治顧問シーボルトの報告があった後、米国は6次草案で独島を韓国領土から欠落させた。 「米国の情報によると、リアンクール岩礁は韓国の一部として扱われたことが一度もなく、1905年ごろから日本の島根県管轄下ににあった」。51年8月、ラスク国務次官補は韓国の独島主権要求を一蹴した。

「日本は韓国の独立を承認し、済州道(チェジュド)・巨文島(ゴムンド)・鬱陵島を含む韓国に対するすべての権利・権原および請求権を放棄する」。1カ月後に結ばれたサンフランシスコ講和条約で独島は韓国に返還される占領地リストから欠落した。 中国が韓国戦争(1950-53)に介入した後、米国は日本を反共の堡塁とするために独島帰属問題で日本に軍配を上げた。

52年1月に李承晩(イ・スンマン)大統領は「マッカーサーライン」に代わる「平和線」を宣布して独島を守ったが、当時も韓国が対米外交で日本に完敗したことは否めない。 過去の痛い記憶は、韓国の進路を照らす灯台の光として輝く。 独島が韓国の領土であることを支持してくれる国際社会の世論の醸成が必要な今日だ。

許東賢(ホ・ドンヒョン)慶煕(キョンヒ)大学部大学長・韓国近現代史



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