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【その時の今日】総力戦体制突入した日本、「小学校」を「国民学校」にする

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版



近代的普通教育を規定した我が国の最初の法規は1895年7月の「小学校令」だ。小学校は「児童の身体の発達に照らして国民教育の基礎とその生活に必要な普通知識と技芸を教える所」として授業年限は5~6年だった。この勅令は「国民」という単語が入った最初の近代法令でもある。

小学校は大学に対するもので、卒業生が輩出された1900年には中学校が門を開いた。中学校卒業生が輩出される1907年には大学が開校しなければならなかったが、日本は1906年「普通学校令」を制定することにして大韓帝国の教育近代化構想を白紙化させた。「普通」とは「特殊」に対する言葉だ。この名前には韓国人に高等教育を施さないという植民地教育構想が盛りこまれていた。以後、韓国人は普通学校と高等普通学校、日本人は小学校と中学校に入学する期間が30年以上続いた。


1938年、日本は「内鮮一体」を名目に初等学校の旧称を小学校に改称し、1941年4月1日からまた小学校を「小学校」に変えた。第1次世界大戦を前後して列強たちの間で「国民教育」を強化する傾向が現れたが、これは「総力戦」という新しい戦争様相と関連がある。総力戦では前方と後方、軍人と民間人が根本的に区分けされなかった。それで子どもたちに愛国心、忠誠心、服従心など「軍人らしさ」を吹き込むのが国民教育の核心課題となった。日本が小学校を小学校に変えたのも総力戦体制構築事業の1つだった。小学校は修身、国語、国史(日本史)、地理で構成された「国民科目」を集中的に教え、子どもたちに「皇国の道」を体得させるのに力を注いだ。「皇国臣民の誓詞」朗唱、東方遥拝、神社参拝など繰り返される儀礼も「国民精神」を涵養する手段として強調された。

解放後、人名と地名、施設名などから「日本色」は徐々に消えたが、日本でさえ小学校に戻った「国民学校」は残った。南北が対峙した「総力戦体制」は「国民教育」に対する強迫観念を育て、南韓ではそのまま残ったし、北朝鮮では「人民学校」になった。1996年、文民化を掲げた金泳三(キム・ヨンサム)政府は「日本の残した根を絶つこと」を事業の一つで小学校を小学校に変えた。

最近、釜山市教育庁で各学校に「国旗への誓い」を復活させよという公文書を送ったという。「国民教育」の再強化が切実な時点かに対しては意見が分かれるが、国史科目を選択に回し「国旗への誓い」を復活させることはつじつまが合わない。

チョン・ウヨン・ソウル大学病院病院・歴史カルチャーセンター研究教授



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