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1853年7月8日。米国の東インド艦隊司令官マシュー・ペリー提督が率いる4隻の軍艦が江戸湾(現在の東京湾)に現れた。武力示威で開港を要求する典型的な砲艦外交だった。翌年、米国と日本は和親条約を締結することになる。ペリー艦隊の旗艦は2450トンの外輪式蒸気船サスケハナ(Susquehana)だった。木材が腐らないようコールタールを塗り、黒く見えた。日本人はこれを「黒船」と呼んで恐れた。当時、日本の主力艦は100-200トンにすぎなかった。当時の黒船は、今でいうと10万トン級の米海軍空母が近づいてくるような圧迫感を与えたはずだ。
この船を見て「衝撃と恐怖」を感じた若者の一人が吉田松陰だ。しかし吉田は先進文明を学ぼうと考え、小さな漁船を盗んで乗り、黒船に寄づいた。乗船を拒絶されて陸地に戻った吉田は、数年間、監獄で過ごさなければならなかったが、自分の考えを曲げなかった。吉田が帰郷して育てた伊藤博文などの弟子が明治維新を起こし、日本の近代化を率いた。
2009年11月28日。洗練されたデザインのスマートフォン一つが韓国に初めて登場した。アップルのアイフォーンだ。横6センチ、縦12センチで135グラムの軽さのアイフォーンは、わずか3カ月で韓国の移動通信市場を変えた。携帯電話は音声通話をする道具から、音楽・ゲームを楽しみ、ウェブサーフィンをする手の中のコンピューターに進化した。KT(旧韓国通信)によると、アイフォーンの販売量は40万台を越えた。1カ月の平均無線データ使用量は122倍に増えた。オムニア・モトローラなども関心を集め、スマートフォンの利用者は100万人を超えた。
スマートフォンの大衆化で韓国インターネット環境はモバイルを中心に再編されている。ところが韓国政府の動きは吉田とは正反対だ。この数年間、情報技術(IT)分野で、なんとかして新しいサービスの導入を阻止しようとしてきた。携帯電話には韓国型無線インターネットプラットホームWIPIを義務的に搭載させた。アイフォーンは登場後1年以上も‘IT強国’と呼ばれる韓国には入って来られなかった。世界最高レベルの超高速インターネットインフラを備えているにもかかわらず、インターネット電話(VoIP)とインターネットテレビ(IPTV)の活性化をできる限り先延ばしした。電話事業者と地上波放送会社の顔色を眺めていたからだ。いくつかは解決されたが、まだ前途は遠い。現在のところスマートフォンから外国企業のナビゲーションプログラムを使用したり、Appストアでモバイルゲームをダウンロードするのは、国内規定のため不可能だ。
アクティブXプラグインだらけのインターネットも依然として問題だ。ウェブブラウザに内蔵された公認認証書セキュリティー機能の代わりに、マイクロソフト(MS)のアクティブXを通してワクチン、ファイアーウォール、キーボードセキュリティープログラムなどを設置する方式に固執している。このためスマートフォンではインターネットバンキングやオンラインショッピングも活用できない状況だ。専門家はパソコンに続いてスマートフォンでも、グローバルスタンダードとかけ離れた‘デジタル鎖国主義’を固執するのかと嘆きたくなる。
黒船の到来でやむを得ず開港した日本は、いち早く西洋式の制度と文物を取り入れ、その22年後に朝鮮侵略に乗り出した。1875年9月20日、日本の軍艦「雲揚」が江華島(カンファド)沖に現れた。違法に領海を侵入したこの船に朝鮮軍が砲撃を加え、日本軍は草芝鎮(チョジジン)を艦砲射撃で破壊し、永宗鎮(ヨンジョンジン)を攻撃した。朝鮮軍は戦死者35人、16人が捕虜となり、大砲35門と火縄銃130丁が奪われた。日本軍の被害は軽傷者2人。それでも日本は責任を朝鮮に転嫁した。翌年、江華島で朝日修好条約を締結し、植民地化の道を開いた。「雲揚」は口径16センチと14センチの砲1門ずつを載せた245トンの蒸気帆船にすぎなかった。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)当時、花崗岩を40センチも貫くという大将軍箭(銃筒を使って放つ矢)を載せた板屋船で日本艦隊を打ち破った朝鮮水軍だ。ところが300年後には小さな1隻の砲艦にやられる状況になったのだ。鎖国主義の結末はこのように残酷だ。
逆説的にも100年前に開港を通してアジアの覇権をつかんだ日本は、最近、電子・通信分野で鎖国主義の道を歩んだ。大陸とかけ離れ、独自に進化したガラパゴス島の動物のように、最高の技術を備えながらも国内市場に集中した。三星(サムスン)電子とLG電子はこの隙を突いてテレビ・携帯電話市場で世界1・2位を争っている。ハードウェア(HW)は確保した。しかし現在のようにコンテンツとソフトウェア(SW)、通信サービスで‘自国式’に固執していては‘デジタルガラパゴス’になるしかないだろう。
キム・チャンウ記者 中央SUNDAY
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