|
1945年3月10日未明、B-29爆撃機344機が東京の空を覆った。 グリセリンと油を混ぜて作った焼夷弾2400トンが3時間、まるでじゅうたんを敷くように都市全体に投下された。 燃え上がる建物や木は人を焼き、油の火が上がる川と海も、火を避けようと飛び込んだ人たちを熱した。 「多数の漂流する遺体を見た。 服を来た遺体も裸の遺体もみんな木炭のように黒く焦げていた。 とうてい現実とは思えなかった。 人の遺体であることは間違いないが、男女も識別できず、その横を流される物体が腕なのか脚なのか、それとも燃えた木なのかも分からなかった」。東京の隅田川の周辺に散らばる犠牲者の惨状を目撃したある軍医官の証言のように、都市全体が巨大な火葬炉となったその日、10万人を超える人の命を奪われた。
42年6月のミッドウェー海戦以降、南太平洋の島を順に失いながらも、日本の為政者らは国体護持を叫ぶだけで、国民の安危は念頭になかった。 天皇制はいかなる犠牲を払ってでも守らなければならない絶対価値だった。 「陛下の臣民は国体を守るために玉砕を覚悟すべき」。軍部の強硬派は結局、国民を戦争の火の海へと追い込んだ。 東京大空襲の1カ月前の45年2月、近衛文麿元首相は「敗戦が明らかで勝利の見込みがない戦争は一日も早く終えるべき」と上奏するが、裕仁天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと、なかなか難しいと思う」と戦争を続けようとした。 その時、天皇は侵略戦争の主役だった。 日本の無謀な抵抗に接した米軍は、軍事施設だけを打撃対象とする従来の軍事目標主義を修正し、人口密集地域に対する無差別爆撃で対抗した。
東京大空襲の1カ月前の独ドレスデン爆撃はナチスの降伏を引き出した。 しかし日本軍国主義者は2つの原爆が長崎と広島を焦土化するまで抵抗をやめなかった。 原爆の被害ばかり強調し自国の加害には目をつぶる日本とは違い、ドレスデン爆撃が「もう一つのホロコースト」と主張するネオナチの妄動に「原因と結果を入れ替えて歴史を曲解しようとするいかなる試みも容認しない」と答えたゲアハルト・シュレーダー元首相の良識が光る。 大空襲の時、軍需工場に強制的に連れて行かれた1万人以上の朝鮮人が犠牲になったことを、日本はもちろん韓国政府と市民社会も記憶しておかなければならない。 東京大空襲から65年を迎える今日。 彼らの犠牲は国家の尊さを悟らせる痛みとして私たちの脳に突き刺さる。
許東賢(ホ・ドンヒョン)慶煕(キョンヒ)大学部大学長・韓国近現代史
この記事を読んで…