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1948年3月9日付の新聞に驚く記事が掲載された。金九(キム・グ)が金奎植(キム・ギュシク)とともに2月25日、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)と金ドゥ奉(キム・ドゥボン)に手紙を送り、南北政治要人会談の開催を提案したということだ。当時の各紙は、北朝鮮が金九の提案を拒否したと伝えた。金九は記者との問答でまだ北側からは回答がないと明らかにした。
当時、北朝鮮はモスクワ協定に反対した曺晩植を軟禁して政治活動を禁止させ、信託統治反対運動を非難した。
このため当時の世間は、北朝鮮側が信託統治反対運動を主導した金九の提案を受け入れないと推測した。しかしその後、金日成と金奎植は金九と金奎植の提案を受け入れ、金九は金奎植とともに38度線を越えて平壌(ピョンヤン)へ行き、南北交渉に出席した。
金九の南北交渉提案と出席は、当時としては当然でありながらも、衝撃的な事実として受け止められた。国連朝鮮臨時委員会が来韓した時、人々は李承晩と金九が積極的に協力すると予想した。しかし金九は1948年2月10日、分断政府樹立に反対する立場を明らかにした。分断は結局、韓半島を戦争に向かわせると予想したのだ。
金九と金奎植が出席した南北交渉は外見上成功したように見えた。2人は金日成・金奎植ととともに分断政府樹立に反対するという‘4金共同声明’を発表した。しかし北朝鮮は、この共同声明とは異なり大韓民国政府が樹立された24日後の9月9日、朝鮮民主主義人民共和国政府を樹立した。結局、金九と金奎植の平壌行きは、北朝鮮政権の樹立を後押ししたように映った。
反共が国是だった1980年代まで南北交渉はあまり評価されなかった。しかし民主化と世界的次元で冷戦秩序が没落した後、南北関係の平和的解決の必要性が提起され、南北交渉がまた注目され始めた。分断問題を平和的に解決するための最初の試みだったからだ。しかし深化していた冷戦的構図を考慮した場合、当時の南北交渉は現実を正しく把握することもできなかった失敗の試みだったという評価が最近出てきている。むしろ冷戦的秩序を受け入れて、可能な範囲内でまず国家を樹立するのが必要だったということだ。
冷酷な現実の中で現実主義的な判断も明らかに必要だ。しかし歴史は成功した運動だけを扱うのではない。三一運動(独立運動)は成功したために記念しているのか。歴史はもう少し長い呼吸を持って見る必要がある。
朴泰均(パク・テギュン)ソウル大国際大学院教授(韓国現代史)
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