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1919年3月3日、朝鮮の第26代王で大韓帝国の初代皇帝であり、庚戌国辱後に日本帝国の「徳寿宮(トクスグン)李太王(イ・テワン)」になった高宗(コジョン)の葬儀が行われた。 公式的には日本帝国が付けた‘李太王’という地位で逝去したが、ほとんどの韓国人は大韓帝国の皇帝として記憶した。 高宗の地位に対する非均質的な記憶は葬儀にも刻まれた。 公式的には日本帝国の国葬だったにもかかわらず、日本式と韓国式が入り乱れた奇妙な葬儀になった。
葬儀日を控えて多くの人が高宗の昇遐を哀悼するためにソウルに来た。 高宗が日本人に毒殺されたという噂が広まったのも、葬儀日を2日後に控えて三一万歳運動が起きたことも、「大韓帝国皇帝高宗」に対する大衆の記憶を刺激して動員しようという意図が作用した結果だった。
君主であれ大統領であれ、統治者は人々の集中的な観察対象であり、最も人々の話題にのぼる人物であり、退位後や死後にも最も多くの人々が記憶する人物だ。 高宗在位時に高宗の反対側にいた人たちは高宗に対して良くない記憶を持っていた。 大韓帝国は自滅したという考えを韓国人に広めようとした日本も、高宗に亡国の責任をかぶせるのに力を注いだ。 無能で柔弱で欲深い王、幼い頃は父に、成人になってからは妻に振り回された定見のない王が、日本人が広めた高宗に対する‘公的記憶’だった。
日帝の支配期、高宗に対する新しい‘公的記憶’は学校の教室や総督府の検閲を難なく通過した出版物などを通じて広まったが、大韓帝国時代に形成された‘公的記憶’を完全に変えることはできなかった。 ある第3国の人は、大韓帝国時代の韓国人の高宗についての一般的な考えをこのように要約した。 「皇帝はアジアの他の国の君主のように臣下が宗教的に敬畏を抱いて眺める存在ではないが、すべての民から普遍的に愛されている」(カルロ・ロジェティー『コレア、コレアニ』)
生きている間は、王から皇帝になり、また太王に降等するという屈曲を経験した高宗は、死後には異なる記憶が対立する‘場’になった。 そして今、韓国社会はすでに退任したり逝去した歴代大統領をもう一つの‘記憶の戦場’としている。 数十年を一緒に過ごした夫婦でさえも一つのことを違った形で記憶することがよくあるだけに、多くの人が一人の人物について同じ形で記憶することは望めない。 記憶はいつも実体とは相当な距離があるという事実さえ忘れなければ、お互いを認め合う幅も広まるはずだ。
チョン・ウヨン・ソウル大病院病院歴史文化センター研究教授
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