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1964年、東京五輪直前、米国で日本開催に反対する世論が沸き立ったことがある。生の魚を食べる野蛮な国でどうしてオリンピックをすることができるかというのが理由だった。そんな米国で80年代以後、和食は富裕層が楽しむ高級料理となった。こうした劇的な変化には松久信幸(61)というスター料理人の役割が大きかった。米国で「ノブ」と呼ばれる彼は、フュージョン和食を芸術に引き上げたという評価を聞く。
彼が4年前に開業したニューヨークのレストラン「ノブ57」で彼に会って成功の秘訣とともに韓食グローバル化のための助言を聞いた。彼は「少しずつ和食に対する拒否感を無くしていったのが奏効した」と「適切な量のコース料理で発展させれば韓国料理も確実にグローバル化に成功する」と壮語した。
次は一問一答。
--和食に対する認識が良くなかった70~80年代に米国で成功した秘訣は。
「私が生まれた日本では生の魚を食べるのが当たり前のことだ。しかし79年、私がロサンゼルスに初めて行ったとき、米国人たちは生の魚を食べるのを嫌がり、驚いた。幸いにも大部分の米国人は新しくて不思議な食べ物が好きだった。ここに着眼した。特にカリフォルニアの住民は健康に神経を使う。それで寿司に対する拒否感を無くして流行にすれば成功すると確信した。流行すれば猫も杓子も寿司を食べるようになるだろう。結局、問題は最初だった。どのようにすれば現地人たちに生の魚を食べてもらえるかがカギだったわけだ。寿司も問題だったが、特に刺身はしょう油につけて食べるので、また大変だった。当時、米国ではしょうゆ味に拒否感をもつ人が少なくなかったからだ。それで新鮮なサラダに表だけ軽くあぶったまぐろの切り身を「刺身サラダ」と名付けて出した。少し火を通しただけだが、とにかく生の魚ではなく、米国人たちが少し近付いてくれた」
--ペルーなど南米で働いた経験をもとにフュージョン和食を取り入れたのも成功の秘訣か。
「私の成功には多くの要因が作用したが、フュージョン和食もそのうちの1つと言える。ペルーでも生の魚を食べる。しかし韓国や日本のように食べるのではなく、レモン汁とタレに漬けて食べる。これを「セビチェ」というが、私はこの料理方式を応用した日本式料理を作った。お客さんの反応も良かった。私は刺身を変身させる方法を習得した。しかしそれ以上に重要なのがタイミングだ。私が米国へ来たときに作った料理が本格的に現地に広がり始めた時だった。そのおかげで私はどうやって刺身と寿司を食べるかを米国人たちに紹介できた。これが重要な成功の元肥だと思う。タイミングと経験、そして料理に対する情熱が核心的な成功の秘訣だったろう」
和食グローバル化に貢献「韓食もグローバル化可能だ」(2)
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