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大陸侵略が本格化した1930年代中盤以後、日本は軍需用物資だけではない植民地の人々まで戦地に連行した。内鮮一体、日本(内地)と朝鮮は一身にならなければならなかった。朝鮮はこれ以上植民地ではない日本国内だったし、呼称も朝鮮人から「半島同胞」に変わった。1937年、日中戦争が起こると日本は民族を抹殺するための同化政策である皇民化政策を強化しはじめた。その年の10月「皇国臣民の誓詞」と神社参拝が義務化され、翌年には「陸軍特別支援兵令」「国語(日本語)常用政策」が実行され「日本国家総動員法」が朝鮮にも適用された。日鮮同祖、血統が同じ朝鮮民族は「完全な日本人」である皇国臣民にならなければならなかった。日本は植民地の人々と日本人の間の境界をあいまいにさせ、帝国に対する忠誠心を催して侵略戦争に動員しようとした。
「内地人と朝鮮人の氏名を区別できないようにすることは内鮮一体の進展のために最も有力な方法の一つだ」南次郎総督の言葉を受けて1940年2月11日、6カ月の期限付きで実施された創氏改名は、戦時動員のための皇民化政策の核心だった。「氏と姓を間違って覚えるな。今までの姓は必ず残る」という説得にもかかわらず3月末まで「朝鮮式姓」を「日本式姓」に変えた戸主が1.07%に満たず、総督府は強制手段を使うほかなかった。創氏しない人々はまず徴用対象になるとか食糧配給から除かれ、子どもは学校に通うことができなかった。また朝鮮式名を使う学童には体罰が加えられた。
軍国主義の狂風の下、生き残るためには避けられない選択をするほかなかったので、期限の8月10日、創氏率が80.3%に達した。しかし高い割合にもかかわらず血統中心の家族制度を壊して民族意識を奪い取ろうとした創氏改名は最も失敗した政策となってしまった。順応するふりをしながら「一族」であることと朝鮮に根拠のあることをどんな形態でも表示する二字の「姓」を作り、固有の「姓」と一緒に機能させてしまったからだ。当時、金海金(キムヘ・キム)氏は本貫の「金海(かなうみ)」に創氏し、密陽朴(ミリャン・パク)氏は始祖が井で誕生した伝説を取って「新井(あらい)」に変えた。日本の無謀な政策に順応するようで応じない彼らの英知がとても賢い。日本は強要しなかったという証拠を残そうと貴族院と中枢院議員である尹徳栄(ユン・ドギョン)と韓相竜(ハン・サンヨン)ら、親日派巨頭たちの場合は創氏から除外させたため、創氏をもって親日派だと烙印を押すことも意味のない二分法にすぎない。
ホ・ドンヒョン慶熙大学学部長、韓国近現代史
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