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1922年2月、日本の留学生たちが発行した雑誌「朝鮮青年」に掲載された朴烈(パク・ヨル)の詩「犬ころ」を読んだ金子文子は宿命的な恋に落ちた。「私が探し求めていた人、私がしたかったこと、それはまさしくその人の中にある。その人こそ私が探し求めていた人だ」
23年9月、関東大地震当時、朝鮮人虐殺の狂った空気が広がる渦中に、2人は天皇を爆殺しようと思ったという理由で拘束され、法廷に立った。「滅ぼせ!すべてのものを滅ぼせ!火を付けろ!爆弾を飛ばせ!毒を撒け!ギロチンを設置しろ!政府に、議会に、監獄に、工場に、人間市場に、社員に、教会に、学校に、村に、通りに。すべてのものを滅ぼす。赤い血で、最も醜く愚かな人類によって汚れた世界をきれいに洗う」1924年、獄中で朴烈が書いた「私の宣言」がよく物語るように、2人を結んでくれたものは個人の自由を抑圧するすべての力…国家、法、監獄、司祭、財産など…この消えた世の中を夢見るアナーキズムだった。
「日本の民衆に対しては日本の皇室が日本の民衆の膏血を搾取する権力者の看板で、神のような者ではなく、幽霊のような者にすぎないことを、朝鮮民衆に対しては実権者だと思って憎悪の射的とする日本の皇室を倒して、朝鮮民衆に革命的・独立的情熱を刺激するためだ」「私は初めて民族的独立思想を持っていた間に、広義の社会主義にはまり、その後、アナーキズムに変わった後、また現在のニヒリズム思想を持つようになったが、今も民族独立思想を自分の心の中から振り落とすことができない」しかし文子と違い、差別される植民地人だった朴烈の法廷陳述がよく物語るように、彼の脳裏深く刻印された民族意識はどんな消しゴムでも消すことができなかった。
バラバラの個人を国家と民族の名で全体に従属させたミリタリズムの狂気の中でも個人の良心を曲げない日本人は文子だけではなかった。「朴烈夫婦の罪で言えば、日本人としては言葉にすることができない大きい罪だが、立場を変えて考えれば、朴烈だけ悪いとはいえない」この発言で職を辞した牧野裁判長。これらの弁護を引き受けた人権弁護士布施辰治。砂浜で捜す針と同じゆえ、これらに対する記憶は韓日両国の市民社会の現在と未来を明るく照らす希望の灯としてより輝く。
ホ・ドンギョン慶熙大学・学部長、韓国近現代史
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