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【その時の今日】中国軍の介入がもたらした1.4後退の悲劇

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版



1950年11月21日、米第7師団が鴨緑江(アムノクカン)沿いの恵山市(ヘサンシ)に入城したその日。

すでに「中国人民支援軍」は国境を渡って韓国入りしていた。50万人にのぼる中国軍の攻勢に押された国連軍は後退を繰り返すほかなかった。「吹雪が荒れる冷たい興南(フンナム)の埠頭で/号泣しながら呼びつづけ、捜しまわった/クムスンよ、いったいどこをさ迷っているのか/血と涙を流しながら1.4以降、ひとりで戻ってきた」(注:1.4後退:韓国戦争の当時、中国人民軍の介入により連合軍が退却した事件で、1951年1月4日はソウルを共産陣営に奪われた日)。


聞く人の胸を打つ大衆歌謡「頑張れクムスン」は12月15日から10日間にわたり、避難民およそ10万人が国連軍の船舶に乗り、興南の埠頭を後にしたその時の惨劇を痛ましく歌う。12月31日、中国軍による正月の攻勢が始まる前、すでにソウル市民84万人が漢江(ハンガン)を渡り、翌年1月3日、リッジウェイ(1895~1993)在韓米8軍司令官がソウルをあきらめると、残りの30万人が避難を急いだ。

「吊り橋の上流と下流では人類の一大悲劇が演出されていた。酷寒の中、数多くの避難民が完全に凍っていない氷の上を滑り落ちたり、倒れたりしながら渡っていた。中には薄く凍った川の中に溺れたり、倒れたりして苦しむ人もいたが、誰も他人の世話をする余力などなかった。しかし涙を流す人も、泣き叫ぶ人もなかった。雪を踏む足音ばかり騒がしく、嘆息だけ残したまま避難民は文字通り黙々と歩いていた」(「The Korean War」、1967)。

リッジウェイ司令官は1951年の「1.4後退」の当時、漢江で展開された惨状を自身の回顧録に収めた。「敵軍の士気が以前より下がったとはいうものの、依然26万人の兵力が存在するため、韓半島を離れられるわけがない。したがって我々は漸進的に前進する攻撃の方針を使うべきだ」(「 彭徳懐年譜」、人民出版社、1998)。

彭徳懐(1898~1974)中国軍司令官は「正月攻勢」前の12月19日、毛沢東あてに送った通知文で、すでに戦争の長期化を予測した。「我々が必ず十分な準備を備えている場合のみ、作戦を遂行しつづけられる。そうでなければ北朝鮮軍が1950年6月から9月まで犯した重大な誤りを再び犯すことになろう。朝中両国の同志は忍耐をもって、必要とされる準備をすべて済ませておかなければいけない」。

翌年1月16日付の通知文で毛沢東はスターリンあてに「拡戦不可」を申し立てた。同月25日に始まった国連軍の反撃で、3月15日ソウルは再奪還できたが、戦線は38度線(韓半島を横切る北緯39度線に引かれた米軍とソ連軍の分割占領ライン)付近で膠着(こうちゃく)状態に陥った。

韓国戦争は内戦(civil war)ではなく、国際戦だった。「大国崛起」を叫び、帝国の仲間入りした今日の中国も、一世紀前の脣亡歯寒(唇が亡くなれば歯が寒いという意で、互いに助け合う、もちつもたれつの関係を意味する)の苦痛を二度と味わいたくないのは明らかである。

慶熙(キョンヒ)大学学長・許東賢(ホ・ドンヒョン)韓国近現代史



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