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1919年3月1日に起こった3.1独立運動の直後に広がった独立戦争論が、20年10月の青山里(チョンサンリ)戦闘後に激化した帝国主義・日本の弾圧により、その動力を失い、実力の養成と外交を通じた独立準備論が力を増した23年1月。
独立運動家の申采浩(シン・チェホ)は自治と文化運動を語るこれらに向かって「朝鮮革命宣言(義烈団宣言)」と雄弁をふるった。
「約10年来、各地で“準備!”“準備!”と叫んだが、その所得は、いくつかの不完全な学校や実力のない団体だけだった。しかし彼らの誠意が足りないのではなく、実はその主張が錯誤である。“強盗”日本が政治・経済の両方向から妨げて経済が日増しに困難化し、すべての生産機関が剥奪されて食べていく方策すら断絶された際、何で、どうやって、実業を発展させ、教育を拡張し、しかもどれだけの軍事を養成できようか。養成したとしても、日本の戦闘力の百分の一とも比較できない。実に騒がしい寝言にすぎないだけである。以上の理由から、“外交”“準備”などの迷夢を捨てて、民衆が直接革命の手段を取ることを宣言する。民衆を目覚めさせて“強盗”の統治を打倒し、韓民族の新しい生命を開拓するというならば、10万の良兵は爆弾を一度投げたことに劣り、億千枚の新聞雑誌は1回の暴動に劣る。ゆえに2千万の民衆は一致し、暴力、破壊の道へ進むべきだ」。
同氏の叫びは孤独ではなかった。「今、何かのたいまつを手にしなければ、眠っている民族の魂を永遠に目覚めさせることができない。この際、日本による植民支配機関と親日の富豪を撲滅し、同胞が眠る精紳を目覚めさせるべきだ」。
26年5月、白凡・金九(ペクボム キム・ク)、金昌淑(キム・チャンスク)の民族運動のリーダーら2人も暴力を独立運動のひとつの方略に選んだ。金九は自身が設立した梁山(ヤンサン)学校を卒業した弟子、羅錫周(ナ・ソクチュ 1890~1926)に民族の独立に向けた祭壇に身を捧げる機会を与えた。
同年12月28日、帝国主義・日本による侵略の中心となった機関、殖産銀行と東洋拓殖会社に懲戒の爆弾を投げた同氏の大計画は所期の目的を達成できなかった。「私は祖国の自由のため闘争した。二千万の民衆よ、奮闘を止めるな!」。しかし黄金町2丁目(現在の乙支路1街)の街頭でピストルで自決しながら残した同氏の遺言は、その時代を生きた烈士の胸を打った。日本の暴圧に対抗して民族の生存を守ろうと抵抗した民族主義は健康かつ正しかった。
しかし「準帝国」に仲間入りした今日。「弱者に発言の場を与えない社会は暴力的であり、これは、表現の権利を得るためのもうひとつの暴力を呼ぶ」。フランツ・ファノンの厳しい教訓のように、一世紀前の義烈の闘争は、抑圧される側の痛ましい歴史を記憶する今の時代を生きる我々に、省察の鏡としても迫る。
慶煕(キョンヒ)大学部大学長・許東賢(ホ・ドンヒョン、韓国近現代史)
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