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国際原子力機関(IAEA)本部があるオーストリアは原子力を嫌う国だ。建設を終えたが、稼動しない原発が1つあった。ツヴェンテンドルフ(Zwentendorf) 原発だ。反核世論に押され、国民投票の末、1978年11月に閉鎖した。反核を主導したノーベル賞受賞者コンラート・ツァハリアス・ローレンツは「原発は最も高い古鉄の固まりになった」と喜んだ。
数カ月後の79年3月、米国ペンシルバニア州スリーマイル島の原発で原子炉が溶ける事故が発生した。オーストリアの選択が先見の明だった。当時カーター米政権は「新しい原発を作らない」と宣言した。86年には泣き面に蜂で、ソ連のチェルノブイリ原発が放射能をもらした。ヨーロッパの多くの国々は原発に背を向けた。
フランスは違った。自国の原発会社であるフラマトムを先頭に米国のウェスティンハウスの機種1つで10年間で6基を建設した。技術をつけようという計算だった。82年には仕事がなくて苦戦するウェスティンハウスをそそのかして源泉技術使用権まで買い取った。
原子爆弾2発を受けて手を上げた日本も50年代から原子力政策を粘り強く進めてきた国だ。日本原子力のゴッドファーザー的人物は首相を務めた中曽根康弘。55年、原子力基本法制定に先立って59年、科学技術庁長官に就任し、日本を原子力大国に導いた。日本は使用済み核燃料の再処理施設まで建設し、元祖米国の会社を買収して源泉技術を手に入れた。
韓国も堂々と原発の建設を進めた。80年代から廃棄物処理場の選定をめぐって反核デモが起こり、さまざまなデマが横行したが、わき目をふらなかった。韓国の原子力のゴッドファーザーは李承晩(イ・スンマン)当時の大統領だ。中心はソウル蘆原区孔陵洞(ノウォング・コンルンドン)の韓電中央研修院敷地だ。ちょうど50年前、ここに李元大統領は「原子力研究所」を作った。今も研究用原子炉が残っており、近くにはこの研究所から分かれた原子力病院がある。30年反核運動が行われると、原発はより安全で温室ガス排出もほとんどない清浄エネルギーとして再スポットを浴びる。日本、フランス、韓国が数千兆ウォン市場の強者として浮上する瞬間だ。そして27日、韓国もUAE原発事業を受注し、原発輸出時代を開いた。生活基盤を原発敷地に差し出した人々の犠牲、科学者の汗、そして歴代リーダーの夢を混ぜた原子力 50年の結実だ。この地で原子力を支えてきた人々に拍手を送る。
ホ・グィシック経済部次長
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