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世界すべての神話で神々は人類の歴史に介入する。ギリシア・ローマ神話の神々は時々人間の形象に変身するか人間の女と関係を持って幾多の半神と英雄たちを生んだものと伝わる。
これに比べ、ヒンドゥーの神々は初めから独自の性格を持った人間や動物に生まれ変わる。これを示すサンスクリット語がアバター(avatar)、あるいはアバターラ(avatara)だ。特に3大主神のひとつであるビシュヌのアバターたちは人類のために正義と平和を守護してきた。英雄ラマも、無敵の戦死クリシュナもビシュヌのアバターだ。
体は人間だが、権能は神そのままなので平凡な人間は敢えて相手になれない。ヒンドゥー最高の戦争叙事詩である「マハーバーラタ」でもクリシュナの仲間や敵手たちは大部分他の主要神のアバタだ。もちろんその中でも最高神であるビシュヌのアバターに勝つ存在はない。
こうした語源をもつアバターは、今日、サイバー空間で多くのネチズンの分身として生まれ変わった。サイワールドなどのソーシャル(social)ネットワークサイトから、リニージなどのゲームの中の世界に至るまで、多くのアバターが人間の主とは別の姿と人格で存在する。
「タイタニック」の巨匠ジェームズ・キャメロンが11年ぶりに出した新作「アバター」も結局、第2の自我についての話だ。コンピューターグラフィックと実写画面が6対4程度で配合された「アバター」は、新しい形式と視覚的な完成度で賛嘆を表すと同時に現実に合わせた寓話としても豊かな含意を持っている。
主人公ジェイク(サム・ワーシントン)は2つの足を使えない障害者だが、原住民アバターに接続しては勇ましい戦士に変身し、飛龍に乗って冒険を繰り広げる。彼にこんな二重の生きざまはロールプレーイングゲームにすっかりはまったオタクの状況とそっくりだ。人間でいる時にもお風呂や食事をしたり、現実とゲームの中を混同し始めたりする姿はゲーム中毒に対する直説的な諷刺でもある。
映画「アバター」の主人公ジェイクが、地球人ながらアバターのアイデンティティーを選択して人間と争うという設定は、自我と第2の自我が必ずしも巡行しないという現実と妙にかみ合う感じを与える。始めから神話でもすべてのアバターが人間に友好的なものではなかった。ビシュヌのアバターは10個ともいわれ、22個ともいう。共通的に最後のアバター、カルキ(Khalki)は、約43万年後、私たちが住んでいる世界に終末を宣告する存在だ。
ソン・ウォンソプJESコンテンツ本部長
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