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1905年11月17日午後、乙巳勒約(ウルサ、乙巳条約)が強迫された徳寿宮(トクスグン)前と会議場内は完全武装した旧日本軍が幾重にも立ち並び、騎兵800人、砲兵5000人、歩兵2万人がソウル市内の全域を制していた。「哀しく叫ぶ(哀呼)」参政大臣の韓圭卨(ハン・ギュソル)が別室に連れ去られた瞬間、伊藤博文は「ほかの大臣らを見ながら“甘えるようなら殺してしまえ”と低い声で語った」(「韓末外交秘話」、1930)。
韓圭卨、閔泳綺(ミン・ヨンギ)、李夏栄(イ・ハヨン)はいかなる脅威にも屈しなかった。11月18日午前1時ごろ、李完用(イ・ワンヨン)を筆頭に李址鎔(イ・ジヨン)、李根沢(イ・グンテク)、権重顯(クォン・ジュンヒョン)、朴齊純(パク・ジェスン)の乙巳五賊は売国奴の道を歩んだ。
「同条約は、日本のような文明国としては恥ずかしい精神的かつ肉体的な暴力により、大韓帝国政府に強要して結ばれたものだという。条約の署名は全権大使の伊藤侯爵と林公使が日本軍隊の武力を背景に、大韓帝国の皇帝と大臣から得たものにすぎない。2日間抵抗した後、大臣会議はあきらめて条約に署名したが、皇帝は直ちに超大国、特に米ワシントンに代表を派遣、加えられた強迫について猛烈に異義を提起した。署名が行われた特殊な状況を理由に、1905年の条約が無効だと主張するのをためらわない」。
1906年、フランスの法学者レイ氏は「大韓帝国の国際法的地位」という論文で、乙巳勒約が「締結時から効力が発生しない」、源泉的に無効であることをすでに指摘した。1897年に公布された大韓帝国の憲法といえる「大韓国国制」の第9条には、皇帝の権限として条約締結権が定めてある。当時、皇帝は勒約に同意も批准もしなかった。
「歴史に記録される最も重要なことを証言する。皇帝は日本に降伏したのでは決してない。快く従ったことも、神聖なる国体を汚したことも決してない。生命の脅威をかえりみず米国に協調を求め、万国平和会議に訴えたが、効果がなかった。すべての朝鮮(チョソン、1392~1910)の人に告げたい。皇帝が見せた不滅の忠義を永遠に記憶してほしい」。1942年、海外の独立運動家らの前で皇帝の特使ハルバート氏が証言したように、当時、高宗(コジョン、朝鮮第26代王)皇帝は国権を取り戻すため全力を尽くしたが毒殺された。
しかし厳密に言って、大韓帝国は日ロの力のバランスの上で延命した砂の城のような王国だった。亡国の責任は「無限に不可侵」の軍事力を持っていた皇帝や500年間をも特権を維持した両班(朝鮮時代の特権的な官僚階級)が取るべきものだ。弱肉強食の国際秩序のもと、自力なく他力に頼って生き残ろうとした大韓帝国は、日本の保護国に転落してしまった悲しい歴史を書き残してしまった。
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