|
「日本は私を産んだ国、韓国は埋められる国」。
1901年11月4日、日本の皇族として生まれた梨本宮方子。一時皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)のお妃候補として名前が取り沙汰されたこともある彼女は、15歳だった1916年、ひどく驚かされる話を耳にした。親も知らなかった婚約のニュースが新聞のトップ記事に掲載されたのだ。「受け入れなければいけませんか」「お願いします。国のためだと思って頂きたい。軍人は国のために献身する。あなたは武士の娘ではないか」母親は国家のため娘を犠牲にしろという皇后の命令に逆らえなかった。
1910年8月29日、大韓帝国(1897年から1910年までの間、朝鮮が使った国号)は亡国という悲しい歴史を書いてしまった。「韓日併合」。その時、帝国主義・日本は「朝鮮(チョソン、1392~1910)は植民地ではなく、国を統合して日本になった」と宣伝した。日本は自国を「内地」、韓国を「半島」と呼び、朝鮮が内地と「同等な」日本の一部分になったのであり、国を奪ったわけではないと強弁した。
しかし、「半島」の実像は差別を受ける植民地であった。その矛盾を鎮めるための修辞が「日鮮融和」と「内鮮一体」だった。帝国主義・日本は「日本と朝鮮が一体」という虚構を宣伝する手段として、両国の皇室の血統を交わそうとした。皇族の「排他的な純血主義」を固守していた日本は、「血の純粋性」を守らねばならなかった。帝国主義・日本は姑息(こそく)な手段として皇族の礼遇を受けながらも、皇族と明確に区別される「李氏王族」という新たな身分を、国を奪われた大韓帝国・皇室の直系子孫に与えた。「血は輸出するものの、輸入しない」。皇族女性のみ王族男性の婚姻対象にしただけで、王族女性は皇族男性の配偶者になり得なかった。「日鮮融和のためなら犠牲も甘受せざるを得ない」。方子の父親の言葉通り、1920年4月28日に行われた李垠(イ・ウン)と方子、つまり李方子の結婚は植民支配の矛盾を伏せるための政略の産物だった。
「非常に悲しいことである。私自身が元々日本人だったので申し訳なく思い、遺憾に思う。こうしたことを体験しながら、私の結婚がどれだけ耐えがたいものになるかに気付いた。暗い未来が見えるようだった」。結婚から1年前の1919年1月、朝鮮時代の第26代王・高宗(コジョン)皇帝の死が自然死ではないという話を耳にした李方子は、自身の人生も順調ではないことを予感した。「日本は私を産んでくれた国で、韓国は私が埋められる国だ。二つの祖国を私は持っている。隣り合っていながらも、常にトゲを間に挟んでいるような両国のどちらが正しく、どちらが誤っているのか、または良く、悪いのか、それは言葉で指摘できないだけでなく、そうしたい気持ちもない」。自伝のエピローグのように、帝国の皇族でありながら、植民地に転落した大韓帝国最後の皇太子妃だった李方子は両国のどちらの味方にもなれない「境界人」として苦悩する生き方をするほかなかった。
この記事を読んで…