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国立ソウル顕忠院は大統領当選者が当選直後最初に訪ねる訪問先であり、公式の国賓の訪問日程にも必ず含まれる所だ。殉国者の遺体や位牌を安置した場所は近代国家の聖域と言える。殉国者は国のため個人を犠牲にするという国民国家の理念を実践した人々として、全国民が敬慕すべき対象と見なされる。
1900年10月27日、朝鮮(チョソン、1392-1910)時代の第26代王・高宗(コジョン)は元帥府(朝鮮末期最高の軍統帥機関)に、乙未事変(明成皇后殺害事件)で殉国した兵士らの祭事を行うための祭壇を別途で設けるよう命じた。元帥府は南小営(ナムソヨン、朝鮮時代・御営庁の分営)の場所に祭壇を設置し、高宗は忠誠を奨励するという意味から「奨忠壇」と名付けた。翌年からほかの事件で殉国した人々の位牌もともに奉安した。
奨忠壇は殉国者のために設けた大韓帝国の公式の祭壇として、現在の国立顕忠院と同じ位置付けをされた。また開港以降、殉国は常に日本の侵略に抵抗する過程で起きていたことから、奨忠壇は自然に抗日の象徴となった。奨忠壇を南小営に設けたのも、同地が南山(ナムサン)のふもとから東方につながる日本人密集地域を遮る地点だったためだ。
日本人が奨忠壇を喜ぶわけがなかった。日露戦争が勃発した直後、旧日本軍がソウルを占領すると、日本居留民団は奨忠壇西方に遊郭を設けた。日本は続いて、奨忠壇の祭事を廃止させ、1919年にはその付近を公園化してしまった。1932年には奨忠壇東方に伊藤博文を称える博文寺を建てた。大韓帝国の聖所で抗日の象徴だった場所を徹底的に侮辱し、痕跡を消したのだ。
大韓民国政府は樹立直後、奨忠壇公園内に戦没兵士らの位牌を奉安する奨忠寺を建てて、しばらくの間その地位を回復させた。しかし韓国戦争(1950ー53)以降、ソウル銅雀区(トンジャクク)銅雀洞に韓国軍墓地が設置されることによって奨忠壇は公園に戻った。韓国軍墓地は65年に「国立墓地」に変わったが、06年、国立ソウル顕忠院に再び改称された。
最近、顕忠院にある故金大中(キム・デジュン)元大統領の墓地の改葬を求める保守派団体のデモがあった。現在の状況から考えれば、こうしたことが再現されないという保障もない。顕忠院と改称しながら名称と内容の間に矛盾が生じたためだ。王であれ国民が選んだ大統領であれ、国家の首班に対しては賢否を正すことはできても忠逆(忠義と反逆)を正すことはできないのだ。いっそのこと国家首班の墓地を別に造成、記録館を併設し、現代版の宗廟を設ける案も検討するに値する。当代では「警戒」になり、後代にはもう一つの世界文化遺産を残すことになるはずだからだ。
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