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1909年10月26日午前9時30分、中国のハルピン駅構内で3発の銃声が響いた。
大韓義軍の参謀中将兼特派独立軍司令官の名で、安重根(アン・ジュングン)義士は伊藤博文(1841-1909)を暗殺した。
「偉大なる政治家、偉大なる心臓。69年間にわたり少しも休む間もなく新日本の経営と東洋平和のため力強く鼓動させてきた偉大なる心臓は、いまや初雪の吹き入る異域の朝、その拍動を永遠に止めた」(「百回通信」)。
社会主義の思想を抱いていた青年文人、石川啄木さえその日に書いた追悼文で伊藤を「東洋平和」を守ろうとした偉人と称えた。各マスコミは一様に「伊藤公の死は日本の大損失であるだけでなく、世界の大損失」と嘆いた。
「同氏の死は世界に大損失ところか、日本に小さな損失すら与えていない。悲鳴の死に同情を送り、死者を悲しむのが人情だから、我々もこれを非難はしないものの、その度を越し狂的に愛惜の念を抱くことには大反対だ」(「大阪滑稽新聞」)。このように当時の世相を指摘した宮武外骨の声は耳を傾けるには小さすぎた。
1年後、帝国主義・日本は韓国を植民地としてのみ込んだ。石川は感激に浸って伊藤の死を美化する2の俳句を作った。「誰か銃で/私を撃ってほしい/伊藤公のように/大の男らしく/死んでみせたい」「だけれども/あなたのように/壮烈な死を/仲間は皆/望んでいる」同氏だけでなかった。その時、日本の人々の脳裏に伊藤は国家のため犠牲になった英雄として刻みつけられた。
「明成皇后(1851~1895)を殺害した罪。朝鮮(チョソン、1392-1910)の第26代王、高宗(コジョン)皇帝を廃位させた罪。罪のない韓国人を虐殺した罪。政権を強制的に奪い統監政治を行った罪。鉄道・鉱山・山林・農地を強制的に奪った罪…」(「安膺七歴史」)。
安重根が獄中で残した自伝で明らかにした15の罪状が物語るように、その時も今も韓国人の胸中に同氏は侵略の元凶と刻印されている。しかし1963年から84年まで通用した千円札の肖像人物だった同氏は、今日も日本人の記憶の中に近代国家を建設した主役として依然、息づいている。
帝国主義侵略の先鋒だった同氏が隣国にどれだけ深い苦しみを与えたかについても省察する歴史教育が日本で広がるべき時点だ。それでこそ、向きあって走る汽車が衝突するかのような両国民の歴史の記憶が和解に向け、その飛び石の1つ目の石が置かれることになるだろう。
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