きょうは遅れて太鼓を叩いて(「蒸し返すこと」の意)みます。私はもともとドラマーなので遅れて太鼓を叩くのも、太鼓を叩いて大騒ぎするのも、私の仕事にぴったりなのです。わたしがきょう叩こうという太鼓は「韓流」「盗用」そして演劇「いさかい」に関することです。すでにメディアで一度騒がれた話ですが、これらは依然として現在進行形で、今後も続く話だという点から勇気を出してみます。
1.韓流-ヨン様もやめようといってるのに…
ペ・ヨンジュンさんは先月、「韓流という表現はあまりに一方的なようだ。その代わりに文化交流とか他の表現を使えばよいのでは」と述べました。明洞(ミョンドン)を埋め尽くした日本人観光客を見てヨン様のパワーを感じたことのある私も、ヨン様の力を借りて同じ話をしたいです。
米国で英国音楽がヒットする現象を「英国の侵略」といいます。だからといって英国文化相が会食の席上でも「英国の侵略をより強化するため新しい政策を展開したい」と述べたという話は聞こえてきませんね。もちろん韓国の文化産業輸出は継続し、それもより旺盛にならねばならないです。それでも少なくとも“韓流”という表現は、韓国文化の人気に対し他国の人たちが使うべきものだということです。ある人がテレビ討論会に出て自己紹介しながら「私は○○博士です」と言ったならとても滑稽に見えませんか。司会者が呼ぶときに「博士はどのようにお考えですか」と使うべきでしょう。韓流は他人が自分を呼ぶ呼称です。
2.盗用の真の被害者はファン
盗用は韓国歌謡産業の慢性病です。最近韓国歌謡が外国で盗用されたケースもありますが、それは一部のケースで、反対のケースがより多かったのが韓国の過去です。ここでわれわれが忘れているポイントのひとつを話しましょう。盗用の真の被害者は“ファン”だということです。通常、盗用をめぐる議論がわき上がるとファンは積極的に擁護に乗り出します。そのアーティストを愛してるからです。このときファンにも激しい葛藤が起こります。なぜか。ファンの立場で聴いても歌が似ていれば、道徳か愛情かをめぐり決定しなくてはならないためです。このときほとんどは「私の好きな人のミス?そんなはずはない」という一種の「判断一時停止」機能を作動させます。
「あなたを愛しているけれど今回の曲は私が聴いても本当に別の曲と似ています。でも次の曲に期待しています」と言える健全な批判文化がないためでしょう。これを認めたら反対勢力の攻撃に自分のスター自体がぼろぼろになるのは明らかですから。
3.演劇「いさかい」の論争の的
演劇「いさかい」(原題:La Dispute)をひとりで見てきました。ヌードですか?5分過ぎればなんでもありません。私が見るにこの演劇の論争の的は「俳優のヌード」ではなく、「ダンス」と「音響」でした。前後に蛇足を付けたダンスはいっそない方がよかったと思います。あまりに頻繁な効果音は没入を妨害します。ただ口笛で直接演じた鳥の声は立派でした。音楽の演奏自体は文句の付けようもないですが、ボリューム調節に失敗し残念でした。
それにもかかわらず原作者の隠された恋愛心理劇らしく笑わせながらも苦しくてしょうがなく、一方ではむしろすがすがしいそんな作品です。劇に没入するのに俳優がヌードで不自然だったりぎこちないことはなかったです。ずっと論争の焦点になっていたヌード自体は論争の的ではないということです。最後に主演俳優4人に劇場では送れなかったスタンディングオベーションを紙面から代えさせてもらいます。
ナムグン・ヨン(大衆音楽家)
1.韓流-ヨン様もやめようといってるのに…
ペ・ヨンジュンさんは先月、「韓流という表現はあまりに一方的なようだ。その代わりに文化交流とか他の表現を使えばよいのでは」と述べました。明洞(ミョンドン)を埋め尽くした日本人観光客を見てヨン様のパワーを感じたことのある私も、ヨン様の力を借りて同じ話をしたいです。
米国で英国音楽がヒットする現象を「英国の侵略」といいます。だからといって英国文化相が会食の席上でも「英国の侵略をより強化するため新しい政策を展開したい」と述べたという話は聞こえてきませんね。もちろん韓国の文化産業輸出は継続し、それもより旺盛にならねばならないです。それでも少なくとも“韓流”という表現は、韓国文化の人気に対し他国の人たちが使うべきものだということです。ある人がテレビ討論会に出て自己紹介しながら「私は○○博士です」と言ったならとても滑稽に見えませんか。司会者が呼ぶときに「博士はどのようにお考えですか」と使うべきでしょう。韓流は他人が自分を呼ぶ呼称です。
2.盗用の真の被害者はファン
盗用は韓国歌謡産業の慢性病です。最近韓国歌謡が外国で盗用されたケースもありますが、それは一部のケースで、反対のケースがより多かったのが韓国の過去です。ここでわれわれが忘れているポイントのひとつを話しましょう。盗用の真の被害者は“ファン”だということです。通常、盗用をめぐる議論がわき上がるとファンは積極的に擁護に乗り出します。そのアーティストを愛してるからです。このときファンにも激しい葛藤が起こります。なぜか。ファンの立場で聴いても歌が似ていれば、道徳か愛情かをめぐり決定しなくてはならないためです。このときほとんどは「私の好きな人のミス?そんなはずはない」という一種の「判断一時停止」機能を作動させます。
「あなたを愛しているけれど今回の曲は私が聴いても本当に別の曲と似ています。でも次の曲に期待しています」と言える健全な批判文化がないためでしょう。これを認めたら反対勢力の攻撃に自分のスター自体がぼろぼろになるのは明らかですから。
3.演劇「いさかい」の論争の的
演劇「いさかい」(原題:La Dispute)をひとりで見てきました。ヌードですか?5分過ぎればなんでもありません。私が見るにこの演劇の論争の的は「俳優のヌード」ではなく、「ダンス」と「音響」でした。前後に蛇足を付けたダンスはいっそない方がよかったと思います。あまりに頻繁な効果音は没入を妨害します。ただ口笛で直接演じた鳥の声は立派でした。音楽の演奏自体は文句の付けようもないですが、ボリューム調節に失敗し残念でした。
それにもかかわらず原作者の隠された恋愛心理劇らしく笑わせながらも苦しくてしょうがなく、一方ではむしろすがすがしいそんな作品です。劇に没入するのに俳優がヌードで不自然だったりぎこちないことはなかったです。ずっと論争の焦点になっていたヌード自体は論争の的ではないということです。最後に主演俳優4人に劇場では送れなかったスタンディングオベーションを紙面から代えさせてもらいます。
ナムグン・ヨン(大衆音楽家)
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