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フランスのG14構想で危機を迎えた韓国のG20誘致

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版



李明博(イ・ミョンバク)大統領は26日、ピッツバーグに戻るアシアナ航空特別機内で記者らに対し「今回は本当に緊張した。銃声のない戦場から帰ってきた感じ」と述べた。一時も油断できなかったG20韓国誘致過程を一言で要約したのだ。

G20会議は各国の政治状況に、大陸間の駆け引き、国際社会での主導権争いまでが絡み、最後の瞬間まで安心できないドラマのようだった。誘致が決まるまで大小の山々があったが、最も大きなヤマ場は昨年8月だった。


◇第1幕、米国の核首脳会議=2010年韓国開催への過程は4月の第2回ロンドン会議当時にすでに始まっていた。当時、第3回会議開催地をめぐり日本とオーストラリアが競合、結局は米ピッツバーグに決定し、オバマ大統領の主導で2010年には韓国が開催するという共感が形成された。当時まで「2010年4月の韓国開催」は有力視され、このシナリオで数カ月が経過した。

8月末に出てきた突出変数は、「核のない世界」を推進するオバマ大統領が来年4月に米国で開催しようと主張した核首脳会議だった。2010年4月に米国で大規模な首脳会議が開かれる状況で、4月のG20韓国開催を守るのは難しかった。さらに米国側の実務者は「韓国は2010年に開催する必要があるのか」と韓国側に尋ね、韓国側の交渉団を慌てさせた。4月の開催にこだわると会議の誘致自体が失敗に終われる状況になったのだ。

その後、米国などとの協議を通して、4月の米国の核首脳会議、6月のカナダのG8会議を避けて、11月ごろ韓国で開催する方向で決まった。しかし09年9月にピッツバーグで会議を開いた後、2010年11月まで1年以上も会議が開かれなければ、G20の地位が急低下するという反対意見が新興国から出てきた。このため、2010年6月にG8が開かれるカナダでG20を簡易開催する案で実務級の意見がまとまった。

「2010年6月にカナダ、2010年11月に韓国」という枠組みが形成されたが、李大統領がニューヨーク行きの飛行機に乗った20日当時、まだ安心できる状況ではなかった。問題はフランスだった。

◇第2幕、フランスを説得=フランスをはじめとする欧州国家はG20体制自体に否定的だった。サルコジ・フランス大統領はその先鋒に立っていた。「金融危機は米国から始まった。火をつけた人がどうやって消防士の役割をするのか」と述べ、米国中心のG20体制に不満を表した。

フランスはG8に欧州国家を多数参加させるG14会議を構想していた。G14会議が現実化すれば、韓国は参加が難しい立場となる。フランスが主張を続ければ「G20韓国誘致」が水の泡になるだけでなく、G20自体がなくなる可能性もある状況だった。

この時、英国が仲裁者になった。フランスの反対を抑えるためには、フランスにG20の中心的な役割を準備しなければならなかった。このため2011年G20会議をフランスで開催しようという妙案を英国が出したのだ。

◇24日夜に開催国が確定=「フランスの2011年開催」は事実上、フランスと欧州をG20に結びつけておくための一種の苦肉策だった。しかし中国とメキシコはピッツバーグ会議が開幕した後も「2011年フランス開催」に反対した。その後、米国と韓国の説得で中国とメキシコが反対の立場を変えた。これがピッツバーグ首脳会議が開幕した24日(現地時間)夜だった。

20カ国の賛成を受けた後の25日朝、2010年度開催国の韓国の李明博大統領とカナダのハーパー首相が記者会見場に立つことができた。両首脳が優雅に記者会見場に立つまで水面下では激しい外交戦争が繰り広げられていたのだ。

ピッツバーグ会議の首脳宣言に「G20は国際金融協力のためのプレミアフォーラム(最高経済協議体)」という内容が含まれるまでも紆余曲折があった。日本は反対の立場だった。中国が参加しているG20の国際的地位が高まるのを望んでいなかったからだ。しかし大勢に逆らうことはできず、結局、反対の立場を撤回した。



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