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【コラム】タロクッパとビビンパ

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
 日本人が好む韓国料理は「ビビンパ」と「焼き肉」だ。 このうち「ビビンパ」は単純なメニューではない。 日本ではお互い別の食べ物を混ぜたりはしない。 多くの日本人は「想像もできないこと」だと言う。 それでビビンパの「ビビン(混ぜ)」を格式の破壊と考える。

これには理由がある。 日本の料理は「素材の味」を最高と考えるからだ。 このため醤油、からし、ソースなどは食材の味を損ねない範囲で使用する。 したがって刺し身は刺し身の味、野菜は野菜の味、肉は肉の味として残る。

料理だけではない。 宗教もそうだ。 日本には八百万の神がいる。 各町内で見られる神社がそうだ。 ある地域では交通安全にご利益ある神社が有名で、ある地域では大学入試にご利益がある神社として名前が知られている。 こうした神社に全国から人が集まる。


日本の仏教徒も同じだ。 百済(ぺクジェ)から初めて仏教が伝来した時、天皇は「隣国の神の一つ」と考えたという。 現在でも日本仏教には神道的な要素が強く溶け込んでいる。 一方、キリスト教の人口は1%にもならない。

では韓国はどうか。 一言で‘混ぜの文化’だ。 韓国仏教は「会通仏教」の性格が強い。 また韓国ほどキリスト教を主体的に受け入れた国も珍しい。 野菜と飯、コチュジャン(トウガラシ味噌)とごま油など、お互い合わないと思われる材料が混ざってビビンパとして生まれる。

ところが‘混ぜの文化’には前提条件がある。 それは‘不二の視線’だ。 自分と相手を二つではなく一つと見る心だ。 野菜とコチュジャン、ごま油、飯を一つと見る時、‘混ぜ’は可能になる。 「われわれはお互い混ざることができる」「混ざるほどより新しくなる」という点をお互いが認める時、初めて‘混ぜ’が成り立つ。

こうした‘混ぜ’を通してのみ発酵する。 各材料の固有の味が混ざり、溶け合い、化学作用を起こし、一次元高い段階に到達する。 こうして‘熟したキムチ’の味が生まれるのだ。 コチュジャンの味でも、ごま油の味でも、飯の味でもない‘ビビンパの味’が出てくる。 それがまさに疎通の味であり、コミュニケーションの結果物だ。

人もそうであり、社会もそうだ。 労働者側と使用者側はタロクッパ(飯と汁が別々に出てくる料理)ではない。 与党と野党もタロクッパではない。 父と娘、母と息子、夫と妻も同じだ。 絶えず対話し、疎通し、妥協しながら混ざらなければならない。 そうしながら十分に熟していくのだ。 そのような時に発酵し、一次元違った味が生まれてくる。

李明博(イ・ミョンバク)大統領が掲げた「中道のリーダーシップ」もビビンパの話だ。 左派と右派はビビンパの材料にすぎない。 「われわれのほうがナムルが多い」「向こうのほうがコチュジャンが多い」などと争うのは愚かだ。 混ぜる理由はナムルのためでもなく、コチュジャンのためでもない。 左派のためでもなく、右派のためでもない。 理由は一つ、最上のビビンパを作るためだ。

そこで考えなければならない。 私は果たして、私たちは果たして、混ぜられる準備はできているのか。 こうした選択の前に民主党が立っている。 対与党闘争ばかり強調する「タロクッパ」になるのか、実質的な代案と政策を生む「ビビンパ」になるのか。 民主党の明日はそこにかかっている。



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