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赦免の歴史は深い。我が国の場合、三国時代までさかのぼる。新羅文武王は逆謨を構えた者から他人の穀食を借りて返すことができなかった者に至るまで「三国統一記念大赦免」をした。
昔の者たちは天災地変が起きるか王室に患者が出ても赦免令を下した。不本意に獄に閉じこめられた人の恨みが空に届いて変故が生ずると考えたからだ。997年10月、高麗成宗の病勢が悪化すると臣下たちが赦免令を申請した。しかし成宗は承諾しなかった。「死ぬか生きるかは天が決めるのに、どうして罪ある者を逃し、不正に命を延ばそうとするのか」と言うのだった。
成宗はまた「なおかつ私を受け継ぐ人は何をもって新たに恩恵を与えることができるか」と言った。自分が赦免令を使いつくしたら新しい王が即位した際、民心を得る方法がないのではと不安がったのだ。おかげで成宗が崩御して2カ月後、次の王の穆宗(モクジョン)が赦免令を民心収拾に緊要に使うことができた。(「高麗史節要」第2巻、成宗文懿大王)
朝鮮でも赦免令は有用な統治手段だった。顯宗時、日照りが続くと臣下たちは「再三赦免令を下すのが小人に幸運かもしれませんが、このように激しい変故にあっては大赦免令を下すことを講じざるを得ません」と願う。「小人の幸運」としながらも解決策がないと考えたのだ。赦免令は「王の最後の手段」だった。
君主制が消えた後にも赦免制は「大統領の最後手段」として生き残った。歴代大統領も直接赦免の恩恵をこうむった。(キム・デジュン)金大中元大統領は1980年と87年2度赦免、復権した。全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)元大統領は拘束2年目の97年に特赦で釈放された。
李大統領にも「赦免の思い出」がある。2000年光復節特赦を通じて政治的に再起したのだ。15日には李大統領が直接「光復節特赦」を断行する。民生安定を立てたいわゆる「生計型赦免」だ。その徳なのか李大統領の支持率は小幅上昇した。
しかし赦免は「根源的処方」にならない。「朝鮮王朝実録」(中宗45巻)でも「御真これを求めて諌言を受け入れることで調整に過ちはなく、民に恨みがなければ災変が自然に消える」とし「根本の対策ではないから赦免令をたびたび下すな」とした。赦免の思い出がいくら甘いものであっても。
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