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ソウルの毋嶽ジェ(ムアクジェ)が、虎を避ける大勢の人が集まって越えたということで「モアジェ」(モア=集めるという意味)と呼ばれていた時代。虎患(人畜に及ぼす虎の害)は九重宮中の帝王まで震えさせた。
「景福宮(キョンボクン)後苑内の虎のこん跡が残っている所に有能な猟師40人を送って捕える」--。
1893年12月12日(陰暦)に王が直接指揮する親軍所属のすべての兵営に緊急命令が出された。その日の「承政院日記」(訳注:承政院=朝鮮時代に王命を司った中央政府の機関)は、壮衛営(朝鮮後期に首都防衛を担当した3軍営のひとつ)、摠禦営(朝鮮後期の中央軍営)、統衛営(朝鮮後期の官庁)、経理庁(朝鮮時代に北漢山城を管理した官庁)の猟師を送って虎を捕獲するという報告内容でいっぱいだ。
「朝鮮の人々は1年の半分は虎を追い出し、残り半分は虎に食われた人の弔問で過ごすという中国の言葉は偽りではない」。翌年、朝鮮(チョソン、1392-1910)の八道を旅行したイザベラ・バードの目撃談通り、虎患は当時、いつ誰に起きてもおかしくない日常的なものだった。
恐怖の化身、虎にも天敵はあった。中国で高価で取引される骨と皮を狙う猟師たちだ。バードが会った猟師の武器、火縄銃はみすぼらしかった。「マッチで火を付けるとゆっくりと燃えていく火縄があり、弾倉には丸い豆ほどの大きさの鉄砲玉3つが込められた。一瞬でも戸惑うと猟師は何もできなくなる」。
1900年ごろ、ソウル付近の山の裾に、草履を履いて長い竹を手に持ち、火縄銃を肩で担いだまま、堂々と構えている3人(写真)は、かなりの名声を博した腕前の猟師だったのだろう。しかし10年後には銃を手にすることができなかった。
「日本人が兵器を禁じ、誰も銃を使用できなくなった。今では山の中の英雄がソウル南大門(ナムデムン)にまで現れ、獣に会う人は死ぬか噛まれるしかない」。
1914年5月6日付の「国ボ報」は、武力による抵抗を懸念した日帝が民間の武器所持を禁じ、虎患がソウル中心部でも避けられなくなってしまった状況を伝えている。
当時の猟師は新式の連発銃を持つ日本・西欧人の勢子に転落した。1917年11月14日付の「毎日新報」は日本人征虎軍100人の入国を報じた。1カ月間にわたり征虎軍は2頭の虎を捕獲した。30年代以降、この地から虎は姿を消した。宮中と山中の帝王をすべて制圧した日帝は、尭舜禹湯(帝王を古代の聖王になぞらえて称える言葉)に続き猛獣を追い出し、民を楽に暮らせるようにしてくれた周の周公ではなかった。その時の日帝はこの地の民衆を脅かすもう一つの姿の捕食者だった。
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