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【その時の今日】日清戦争の引き金引いた日本、10時間後に蹂躙された景福宮



1894年7月22日の夜、竜山(ヨンサン)に駐留中の旧日本軍は出動の命令をただ待っていた。

作戦の目標は景福宮(キョンボックン)を占領し国王を捕虜にすることだった。世間に知られている通り同事件は「韓日両国の兵士の偶然な衝突」が引き起こしたのではなく、周到な計画によるものだった。


日清戦争の引き金となった景福宮占領は、日本が派兵を決めた5月31日、すでに予定済みだった。東学(朝鮮末期に興った新宗教)によって全州(チョンジュ)が陥落したその日。日本の内閣は議会によって弾劾される最大の危機に逢着していた。日本は内部の危機を、外で戦争を起こすことで解消しようとした。

1885年の甲申事変(甲申の政変)後、天津で李鴻章・伊藤博文を全権大使として結ばれた日清間の天津条約には、朝鮮(チョソン、1392-1910年)に出兵する際「通告」するという条項が入っていた。日本は同条項を恣意(しい)的に拡大解釈し、清軍3000人が牙山(アサン)湾に到着した翌日の6月2日、7000人の兵力を済物浦(チェムルポ)に上陸させた。

7月23日夜0時30分、夜を明かし待機中だった旧日本軍第5師団・混成旅団長の大島義昌あてに「計画通り実行せよ」という大鳥圭介公使の電報が届いた。午前4時20分、建春門(コンチュンムン)で開始された交戦は10時間以上にわたり王宮のあちこちで続いた。「日清戦史草案」は当時、朝鮮軍の発砲が「午後2時に至っても終わらず、国王が使者を送り朝鮮軍の射撃を阻止させると、はじめて銃声が完全に途絶えた」と、激烈だった朝鮮軍の抵抗を記述している。

朝鮮軍の武装が完全に解除されたその日。日本は親日・傀儡(かいらい)の内閣を構成し、大院君(テウォングン)を再び摂政に就かせた。清寄りの閔(ミン)氏親族は政権から追い出され、国王は日本の支配の下に置かれた。7月25日に日本軍は成歡(ソンファン)で清軍を撃破し、26日に清の輸送船を牙山沖に埋めた。

日本が東洋の覇者として登場するきっかけとなった日清戦争はこうして始まった。「清兵を朝鮮国境の外に撤退させ、朝鮮の独立と自主を強固にする」。

戦争が真っ最中の8月26日に調印された「大日本対朝鮮両国の盟約」第1条は、この戦争が「朝鮮の独立のためのもの」と強弁する。8月5日にソウル麻浦区孔徳洞(マポグ・コンドクトン)にあった万里倉(マンリチャン)へ凱旋(がいせん)する旧日本軍を収めた写真(独立記念館が所蔵)の中、日の丸の旗と並んだ太極旗(テグッキ、韓国の国旗)に、万感胸に迫る。

しかし、この戦争は韓国の独立を棄損した明白な帝国主義の侵略戦争であった。東学農民軍は同年、抗日の旗じるしを再び掲げた。イサベラ・ビショップが看破した通り「朝鮮のどこかに愛国心がうごめいているならば、それは確かにこの農民の中にあった」。



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