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サッカー国家代表チームの‘守護神’李雲在(イ・ウンジェ、36、水原三星)の左目には青いあざができていた。 17日に行われた2010南アフリカワールドカップ(W杯)最終予選の最終戦でイランの攻撃手とぶつかった時のものだ。 「痛みはないのか」と尋ねると、「無敗でW杯本大会進出が決まったのだからこれくらい…」と笑顔だ。
イラン戦の翌日の18日午前、京畿道器興(キョンギド・キフン)の水原三星(スウォン・サムスン)クラブハウスで李雲在に会った。 イラン戦を終え、夜中に帰宅したが、所属チームの午前の練習に参加した。 「W杯最終エントリーに選ばれるために頑張らなければいけない」と笑って話す姿からは緊張感から抜け出した余裕が感じられた。
慶煕(キョンヒ)大3年だった94年にAマッチにデビューし、16年間にわたり韓国のゴールを守っている李雲在は、イラン戦でAマッチ120試合を満たした。 南アフリカW杯に出場する場合、洪明甫(ホン・ミョンボ、現20歳以下代表チーム監督)のAマッチ最多出場記録(135試合)の更新も可能だ。
◇緊張で震えたサウジとの復帰戦
07年11月の飲酒問題で1年間代表チーム資格停止となった李雲在は、昨年11月のサウジアラビア戦(アウエー)で代表チームに合流した。 李雲在は「19年間勝っていないサウジ戦に出場する時、Aマッチにデビューした当時のように体が震えて緊張した」とし「絶対にゴールを許さないという気持ちで臨んだが、みんなが頑張ってくれて良い結果(2-0)が出た」と話した。 また「特にサウジ戦は観客によるレーザービームのため視野が狭まり苦労した。 サウジ戦の峠を越えてから余裕ができた」と振り返った。
◇2度もチャンスをくれた許丁茂監督は恩人
国家代表としてプレーしながら迎えた2度の危機から李雲在を救ったのは許丁茂(ホ・ジョンム)監督だった。 オリンピック(五輪)代表時代だった96年、減量をして肺結核になった李雲在は2年間、闘病生活を続けた。 98年フランスW杯に出場できず挫折していたその時期、代表チームの采配を握った許監督は李雲在を呼んでまたチャンスを与えた。 飲酒問題でどん底に落ちた李雲在を代表チームに呼んだのも許監督だった。 南アフリカW杯の最終予選6試合で李雲在が許した点はわずか2点。 李雲在は「自分のすべての情熱で監督に報いたいという一心だった」と語った。
◇PKの秘訣は「車のナンバープレート」
李雲在は清州(チョンジュ)商高1年の時、フィールドプレーヤーからゴールキーパーに転向した。 矢のように通過する自動車のナンバープレートを記憶する習慣はその時に生じた。 これは相手の攻撃手の速い動きを動物的な感覚で読み取る能力を養うための訓練で、日本人野球スターのイチローもこの方法で反射神経を高める訓練をしたと伝えられている。 李雲在が02韓日W杯のスペイン戦、04年Kリーグチャンピオン決定戦などで見られたように特にPKに強い理由だ。 李雲在は「データよりも自動車ナンバープレートを暗記した感覚に依存するほうだ。 南アフリカでもPKになれば自信はある」と語った。
◇朴智星は後輩たちの先生
06ドイツW杯で主将を務めた李雲在は現主将の朴智星(パク・チソン、28・マンU)について「人を率いるというよりも、周囲の人が負担なく近づいていける性格」とし「最高の地位で最高の姿を見せているので若い選手たちも彼によくついていくようだ」と話した。 続いて「常に自分の経験を話しながら後輩に動機を与える。 まるで家庭教師のようだ」と語った。 李雲在は「嫌なことをいうのは自分と李栄杓(イ・ヨンピョ)で、悪役を担当している」と言って笑った。 李雲在は常に付きまとう‘体重問題’について断固と語った。 「自分の体重が試合をするうえで問題になれば未練なく引退する」とし「妻が気をつけて食事を用意してくれるが体重は落ちない。 肥満に見えないよう代表チームのユニフォームも黒に変えた」
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