日帝強制占領期間に取り払われた景福宮(キョンボックン)西望楼西十字閣の位置が確認された。西十字閣は孝子路入口の歩道境界石から中央車路まで2車線にわたっていたものだとわかった。現在、西十字閣の石碑が置かれた位置より青瓦台方向に3~4メートルほど寄った地点だ。国立文化財研究所(所長キム・ボンゴン)は4日、光化門(クァンファムン)の西側の宮牆(宮廷の垣根)発掘結果を発表し、このように明らかにした。
宮廷の威容を高めると同時に内外を察する望楼の役割もした西十字閣は、日帝強制占領期間である1920年代に取り払われた。宮牆とつながった垣が取り払われ、道の真ん中に残された東十字閣が国内に唯一残った宮廷望桜だ。西十字閣の位置は新しく掘り出した光化門西の宮牆基礎石列の方向に合わせて計算したものだ。
調査の結果、西側の宮牆は太祖時代の基礎に高宗時代の基礎石を積み重ねたものと確認された。昨年掘り出した東側の宮牆と同じ築造法だ。長さ15メートル、幅2.5メートル、高さ1.2~2.5メートル規模の御溝(宮廷排水路)も発見された。宮牆と繋がった北側に馬屋と池の跡も現れたが、古宮博物館の建物で塞がれ、これ以上発掘を進行することができない状態だ。
宮廷の威容を高めると同時に内外を察する望楼の役割もした西十字閣は、日帝強制占領期間である1920年代に取り払われた。宮牆とつながった垣が取り払われ、道の真ん中に残された東十字閣が国内に唯一残った宮廷望桜だ。西十字閣の位置は新しく掘り出した光化門西の宮牆基礎石列の方向に合わせて計算したものだ。
調査の結果、西側の宮牆は太祖時代の基礎に高宗時代の基礎石を積み重ねたものと確認された。昨年掘り出した東側の宮牆と同じ築造法だ。長さ15メートル、幅2.5メートル、高さ1.2~2.5メートル規模の御溝(宮廷排水路)も発見された。宮牆と繋がった北側に馬屋と池の跡も現れたが、古宮博物館の建物で塞がれ、これ以上発掘を進行することができない状態だ。
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