|
著者はわれわれの歴史に刃物を突き刺した。しかしその刃物は息の根を止める非情な凶器ではない。死者の死因を明らかにする、そしてその死の‘怨恨’を解く冷静な解剖用のメスだ。
高麗25代王・忠烈王(在位1374-1308)。この時から‘祖’や‘宗’のような先王に対する廟号が消え、高麗はモンゴル帝国の諸侯国になった。‘忠誠’の‘忠’の字の付いた王が‘帝国の辺境’を委任統治することになったのだ。
この本は、元の世祖フビライ(在位1260-94)の娘婿になった忠烈王の時代の高麗を扱っている。フビライの野心が日本列島のまで及んだ時代であり、高麗は倭征伐に向かわなければならなかった。連合軍を水葬させた‘神風’さえなければ‘われわれ’も日本を征服できたと? 歴史に仮定などないが、こういう結論は情けない。
1274年の1次征伐の遠征軍は4万人だった。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)当時に倭軍15万人が上陸したのに比べるとあまりにも少ない。これは‘武力デモ’にすぎないというのが著者の解釈だ。
1281年の2次征伐当時は戦艦5000隻、16万人の兵を超える大規模な遠征隊だった。しかしその圧倒的多数は当時征伐を終えたばかりの南宋の軍人だった。結局、烏合の衆の‘敗残兵’が日本遠征の主力になったのだ。このうち10万人が帰還できなかったという。上陸もできずに暴風を受けて溺死し、なんとかたどり着いた兵も敗走したため、数万人が敵地で孤立し、殺戮された。
忠烈王は2度の求婚、5年を待って39歳の年齢でフビライの17歳の娘と結婚する。高麗武人政権がようやく終末を告げた時期だ。王権強化のための政略としてモンゴル帝国の皇帝の娘婿になったが、その代価は過酷なものだった。
この惨憺たる歴史、モンゴルと日本からの二重の敗北の歴史を描いた著者イ・スンハン氏(53)は光州(クァンジュ)ファジョン中学の社会の教師だ。専門研究者が少ない高麗史の専攻で、全南(チョンナム)大で博士課程を終えた。03年から2年かけて『高麗武人の話』4部作を出し、話題を集めた。
イ氏はなぜこの‘不便な歴史’と向き合ったのだろうか。「いわゆる‘元干渉期’と称される80余年の歳月はわれわれの歴史で悲惨な時期だった。しかしそれ自体の歴史を直視することが大切だ。‘民族意識’を強調するとして外勢干渉期に関する研究を疎かにしてはいけない」
日帝‘植民史観’がわれわれの歴史の‘他律性理論’を強調する時、この時期が‘好材料’だったという。しかしすでに‘奪われた’時代、その時代に関する研究までも奪われてもよいのか。
著者は「この時期は民族主義的な観点で見れば惨めだったが、賎民には身分上昇のきっかけになった。当代の世界文化を率いた元の首都(現在の北京)に最も近い国として、国際的な文化交流が活発だった時期でもあった」と説明した。
著者の次の作品は忠宣王(在位1308-13)時代を扱う。フビライの孫の忠宣王はわれわれの歴史上初の‘混血君主’だ。「モンゴル帝国と高麗」というシリーズで企画された著者の連作は全4部作になる予定だ。
この記事を読んで…