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植民支配時代に収奪の通路となった新道



すがすがしい新緑の香りに包まれる春。新道に立ち並ぶプラタナスの新芽が眩しいほど鮮やかだ。

しかし、民衆の血と汗がにじんでいる韓国近代の道路の歴史を思い浮かべると悲しい気持ちになる。1906年に統監府は卓上に広げた地図に直線を引きはじめた。翌年▽大邱(テグ)-浦項(ポハン)▽木浦(モクポ)-光州(クァンジュ)▽群山(クンサン)-全州(チョンジュ)▽平壌(ピョンヤン)-鎮南浦(チンナムポ)--をそれぞれ結ぶ道路が建設されはじめた。


延べ741キロメートルにのぼる直線の大路が▽大韓帝国(1897年10月12日から1910年8月29日までの朝鮮の国名)の予算▽逮捕された義兵▽強制連行された農民--の血と汗で作られた。穀倉と鉱物の産地と、日本行きの輸送船が行き来する開港場を結ぶ、収奪の通路となったこの道は、当初から当地の人の便益とはかけ離れていた。

大韓帝国を植民地にした日本の帝国主義は、韓半島を恒久に支配するのを狙った。それから新道は行政と軍事の本拠を中心に、まるで「くもの巣」のようにきめ細かく敷かれた。市場と川の入り口や官庁と街を囲み、物資だけでなく人と人の間に温かい情が行き来した旧道は切断されてしまった。しかし、朝鮮(チョソン、1392-1910)王朝時代のかつての慣例を口実にし、見返りも提供しないまま、道路用地と労働力を搾取し、働かせた建設方法は、統監府時代と同じだった。「思い切って田んぼを買っておいたら、新道のど真ん中になった」「畑は壊され新道になり、家屋は壊され停留所となった」。命より大事な土地と家を奪われた農民の悲しむ気持ちを切々と訴える民謡のメロディーが涙ぐましい。

1936年3月2日付の東亜(トンア)日報は「道路改修工事への賦役(ぶえき)を撤廃せよ」と一喝した。新しい道が設けられれば、燃料と穀物を運ぶ農民の仕事を貨物車が奪っていくはずで、乗合自動車も中流以上が乗るだけなのに、道路の工事をそれらの賦役に頼るのは矛盾だ、ということだ。

35年の「三千里」(サムチョンリ、29年に創刊した大衆誌)3月号に掲載された李泰俊(イ・テジュン)の小説「木は植えておいて」の内容は、土地を奪われた後、急いでソウルへ向かう農民らの目に、新道がどう映っていたかをよく示す。

「長く途方もなく広い道。目に収められないほど遠くまで伸びた道。目だけでなく、足にも、心にも不慣れな道であった。電柱の電線がぶんぶん音を立てるのも、ホオジロやキジの鳴き声よりも途方もなく怖かった。自動車が通るときはもちろん、自転車がベルを鳴らしながら通りすぎるだけでも慌ててしまい、群がって道路の下に降り、えっちらおっちらと歩くだけだった」。「プラタナスの並木通りで道を尋ねる、荷物を背負った農夫(写真)も、自動車に道の中央を譲ったまま、様子をうかがいながら道路沿いを歩いたのだろう」(写真=『モダンの誘惑、モダンの涙』、ノ・ヒョンソク著、写真:イ・ジョンハク、出版:センガゲナム)。

老婆が杖に頼って登ったくねった峠が懐かしく思える今日である。



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