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1905年11月17日の乙巳(ウルサ)条約によって、朝鮮(チョソン、1392-1910)は形だけ残った国になった。
同月30日、忠正公・閔泳煥(ミン・ヨンファン、1861-1905)は王朝の没落に責任を取り、自決で贖罪(しょくざい)した。同氏が残した遺書は、読む人の胸に大きく響く。
「悲しい。国と民の恥辱がここまで至り、わが人民がすべての生存競争の中から消えることになった。泳煥は死でもって皇恩に報い、2000万の同胞に謝罪しようとしている。幸いわが同胞と兄弟が千万倍より奮励し、志気を固め、学問に励み、一致団結し、全力を尽くして自由と独立を回復するならば、死んだこの身もあの世で喜び、ほほえむことだろう。ああ、失望はするな。大韓帝国の2000万にのぼる同胞に別れを告げたい」--。
身は滅びえても魂は残るもの。翌春、血がついた服を保管しておいた部屋に青い竹が芽ばえた。「血竹」を芽ばえさせた同氏の衷情は、後代の人々の脳裏の奥深く「国のために亡くなった愛国者」として焼きついた。しかし閔妃をおばとする同氏は17歳に官職を得て、21歳はにすでに堂上官(殿上人に相当)になるほど、権力を威力を十分味わった権力の主要人物だった。
1890年代に同氏は閔泳駿(ミン・ヨンジュン)、閔泳達(ミン・ヨンダル)、閔泳韶(ミン・ヨンソ)とともに世間で取り沙汰されていた、当時、政界を思うままに動かした閔氏ら4人の中の1人だったのだ。朝鮮時代末期に相次いで登場した勢道政権(外戚が政治を取り仕切る政権)の共通点は、国より家門の利益を掲げるところにあった。
閔氏政権も例外ではなかった。甲申政変(1884年、ソウルで日本の援助を得て独立党「開化派」が起こしたクーデター)以降、超大国の間で力のバランスが取られ、外部で大きな問題が起きなかった、いわゆる「太平十年(1885-1894)」がやってきた。国を富強にできる絶好のチャンスだった。
しかし、このとき閔氏親類の腐敗が激化し、東学(朝鮮時代に西学、すなわち天主教に対抗するものとして興った新宗教)農民の蜂起を招いた。東徒大将のチョン・ボンジュンは閔泳煥を「常に官職と爵位を売り飛ばしている者」と非難した。閔氏は名実ともに閔氏戚族(親類)政権の主要人物として、王朝の没落を導いた責任を免じにくい人物でもある。にもかかわらず後代の人々が同氏を「忠義之士」とたたえ、功過を正そうとしない理由は、同氏が自分の政権の過誤に死でもって贖罪した、韓国歴史では見つけにくい責任感のある政治家だからだ。
「ファミリー」というもうひとつの戚族が取り沙汰される今日。閔氏の反躬自省(過ちの根本を自分の中から見いだし反省すること)する生き方は、一世紀が過ぎた今、政治家だけでなく我々の精紳を刺激する。侍従武官長の時代、近衛兵の前でロシア軍服姿で長刀を身につけたまま、ほほえむ同氏が懐かしく思える。
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