緑色蛍光タンパク質発見
下村教授は陸軍将校である父親に付いて少年期を満洲と大阪などで過ごした。第2次世界大戦末期の中学生時代、彼は米軍空襲を避けて長崎県の諫早に疎開した。転校初日、彼を待っていたのは学徒動員だった。戦争が終わるまで軍需工場で仕事ばかりしていた。
1951年、長崎大学医大薬学専門部を首席で卒業した彼は、就職と学問の間で悩んだ。結局「他人の言葉をよく聞く性格ではなかったので」学問を選んだ彼は、名古屋大学の研究室で働くことになる。ここで運命を決める出会いがあった。名古屋大学が誇る平田義正教授(2000年死去)の研究室で働く機会を得たのだ。平田教授は「フグ毒の構造決定」などの研究で世界的名声を得ていた。
平田教授の下で彼は甲殻類とウミボタルの発光構造を研究し始めた。生物発光との初めての出合いだった。そして1年でウミボタルの発光物質を精製し、結晶させるのに成功した。米プリンストン大学研究チームが20年間失敗を繰り返したことを1年でやってしまったのだ。
60年、フルブライト留学生に選抜され、プリンストン大学に行った。彼は「大学院の学生ではない単純な研究生の身分である私にそんな機会をくれた恩師の心が、留学時代苦労した時期に大きな励ましになった」と打ち明ける。
ノーベル賞受賞の業績となった緑色蛍光タンパク質(GFP)を発見したのは、留学して1年たった61年だった。ワシントン州にあるフライデーハーバー研究所滞在中、エクオレアビクトリア(Aequorea victoria)という発光クラゲから緑色蛍光を出すタンパク質を発見、抽出するのに成功したのだ。しかしその有用性と遺伝子組み換えの応用が立証されたのは92年になってからだった。GFPを遺伝子組み換えで植物に注入し、夜でも光を出す発光植物を作ることができ、ガスを見つければ色が変わる植物も作ることができるようになった。
そしてそれから16年経って、彼はノーベル賞を受賞したのだ。
63年、名古屋大学の助教授になって帰国したが“雑音”が多くて研究に専念することができないとし、65年にまたプリンストン大学に戻った。以後82年から2001年まで、世界的な海洋生物学研究所であるウッズホールで上級研究員として在職し、その後退任した。
しかし研究室が家に変わっただけで、彼の研究は続いている。「私は輝くものならハゲ頭を除いてすべておもしろい」という知的な好奇心のためだ。
下村教授は陸軍将校である父親に付いて少年期を満洲と大阪などで過ごした。第2次世界大戦末期の中学生時代、彼は米軍空襲を避けて長崎県の諫早に疎開した。転校初日、彼を待っていたのは学徒動員だった。戦争が終わるまで軍需工場で仕事ばかりしていた。
1951年、長崎大学医大薬学専門部を首席で卒業した彼は、就職と学問の間で悩んだ。結局「他人の言葉をよく聞く性格ではなかったので」学問を選んだ彼は、名古屋大学の研究室で働くことになる。ここで運命を決める出会いがあった。名古屋大学が誇る平田義正教授(2000年死去)の研究室で働く機会を得たのだ。平田教授は「フグ毒の構造決定」などの研究で世界的名声を得ていた。
平田教授の下で彼は甲殻類とウミボタルの発光構造を研究し始めた。生物発光との初めての出合いだった。そして1年でウミボタルの発光物質を精製し、結晶させるのに成功した。米プリンストン大学研究チームが20年間失敗を繰り返したことを1年でやってしまったのだ。
60年、フルブライト留学生に選抜され、プリンストン大学に行った。彼は「大学院の学生ではない単純な研究生の身分である私にそんな機会をくれた恩師の心が、留学時代苦労した時期に大きな励ましになった」と打ち明ける。
ノーベル賞受賞の業績となった緑色蛍光タンパク質(GFP)を発見したのは、留学して1年たった61年だった。ワシントン州にあるフライデーハーバー研究所滞在中、エクオレアビクトリア(Aequorea victoria)という発光クラゲから緑色蛍光を出すタンパク質を発見、抽出するのに成功したのだ。しかしその有用性と遺伝子組み換えの応用が立証されたのは92年になってからだった。GFPを遺伝子組み換えで植物に注入し、夜でも光を出す発光植物を作ることができ、ガスを見つければ色が変わる植物も作ることができるようになった。
そしてそれから16年経って、彼はノーベル賞を受賞したのだ。
63年、名古屋大学の助教授になって帰国したが“雑音”が多くて研究に専念することができないとし、65年にまたプリンストン大学に戻った。以後82年から2001年まで、世界的な海洋生物学研究所であるウッズホールで上級研究員として在職し、その後退任した。
しかし研究室が家に変わっただけで、彼の研究は続いている。「私は輝くものならハゲ頭を除いてすべておもしろい」という知的な好奇心のためだ。
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