1991年10月のことだ。退いた海部俊樹日本首相の後任を選ぶ自民党総裁選挙に宮沢喜一氏をはじめとした3人の名政治家が出馬した。遊説場を歩き回らなければならない候補者たちが、ある日、ある政治家の個人事務室にそれぞれ呼ばれた。最大派閥である竹下派の会長代行小沢一郎氏の「面接審査」が待っていたのだ。72歳のベテラン宮沢氏とは息子ほどである49歳の小沢氏の面接試験を通過して総理職に就くことができた。小沢氏が直接表に出ないのは「非常に若い」という理由であった。当時は50代の首相も若かった時代だった。
1年8カ月後、宮沢氏を引き下ろしたのも小沢氏だった。小選挙区制導入をめぐり宮沢氏と対立した彼は、自分の同調者を携え、野党と手を取り合って首相不信任案を可決させてしまった。この事件は自民党が総選で敗れ、創党38年目にして初めて野党に転落する政変の口火となった。自民党を飛び出した小沢氏は8の群小野党を集めて連立政権を作った。看板は細川護熙首相だったが、政局の主役はやはり小沢氏だった。
1年8カ月後、宮沢氏を引き下ろしたのも小沢氏だった。小選挙区制導入をめぐり宮沢氏と対立した彼は、自分の同調者を携え、野党と手を取り合って首相不信任案を可決させてしまった。この事件は自民党が総選で敗れ、創党38年目にして初めて野党に転落する政変の口火となった。自民党を飛び出した小沢氏は8の群小野党を集めて連立政権を作った。看板は細川護熙首相だったが、政局の主役はやはり小沢氏だった。
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