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「ここは朝鮮(チョソン、1392-1910年)の愛国志士、安重根(アン・ジュングン、1879-1910年)が収監されていた監獄です。‘東洋平和論’もここで執筆しました。安義士は正義のために犧牲になりました」--。
24日午後、中国大連市旅順向陽にある「旅順日俄監獄旧址博物館」。もともとは安重根義士が投獄され、死に至った旅順監獄だった。博物館の中には安義士の絞首刑が行われた部屋など最後の痕跡(こんせき)がそのまま残っていた。ガイドは安義士が収監されていた監房に着くと、このように説明し、監房の壁面の銅板を指した。
そこには安義士の写真とともに、韓国語・中国語・英語・日本語・ロシア語で安義士に関する説明や業績が詳しく記述されていた。狭い窓のすき間から監房の内部をのぞいてみた。16.5平方メートル(5坪)にもならないほどだ。辛うじて日が差す監房の片すみには机があり、その上には筆・墨・硯・紙が並んでいた。
安義士はここで約300編の遺墨(故人の書画など)を残した。「為国献身、軍人本分」(国のため身を捧げるのは軍人の本分)なども書いた。安義士は1909年10月26日、朝鮮侵攻に率先した伊藤博文をハルピン駅で狙撃した。それから144日間にわたって同所に収監された後、1910年3月26日に殉国した。
中国政府は「抗日愛国教育の場」として活用するため、71年に博物館に改造した。安義士の殉国第99周年と義挙第100周年(10月26日)を迎え、旅順監獄と旅順の関東都督府地方院の現場を取材した。
◇旅順監獄に行く
旅順監獄だった「旅順日俄監獄旧址博物館」は中世西洋洋式で建てられた白い建築物だった。近付くほど圧倒されるような感じだ。旅順監獄は1898年に旅順と大連を強制的に占領した帝政ロシアが1902年に着工した。その後、日露戦争(1904-1905)で勝利した日本が1907年に最大2000人の囚人を収容できる規模に増築した。
監獄の総面積は22万6000平方メートル。このうち高さ4メートルの塀で725メートルにわたり囲まれた収監施設の面積は2万6000平方メートルだ。この監獄は1945年に日本が敗亡するまで使われた。安重根義士を含む数多くの抗日運動家がここに投獄され、拷問を受けた。
ドーム状の建物の正門から入ると、中国人観客が25人民元(約360円)を支払って入場券を買っていた。ガイドの案内を受けて監房の中に入る瞬間、レンガ造りのビルの内部から冷たい空気が出てくるのを感じた。監房の通路をおよそ10メートルほど歩くと鳥肌が立った。無念の死を遂げた独立運動家の悲鳴があちこちから聞こえてくるようだった。
安重根義士殉国99年…旅順監獄に行く(2)
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