私が韓国に初めて来たのは1970年1月の寒い日だった。 黒い煉炭の穴が赤く燃える場面を今でもはっきりと記憶している。 米国平和奉仕団の団員として韓国に来ることになった当時、韓国については何も知らなかったし、この国が自分の人生を変えるだろうとは想像もしていなかった。
実際、私はフランス語が使われる西アフリカ地域へ行くことを希望していたし、韓国に来たのは失敗かもしれないと考えていた。 しかし今ではむしろ韓国に来たことを感謝している。 そう考えるようになったことにはいくつか理由がある。 まず政治に対する国民の情熱だ。 韓国を愛する気持ちが芽生えたきっかけも、韓国人の友人についていって聞いた金大中(キム・デジュン)氏の演説だった。
しかし何よりも韓国に対する愛情が深まったのは普通の韓国人の生活に接したことだ。 平凡な韓国人の家族と一緒に暮らしながら、韓国語・韓国文化・韓国の伝統について生きた教育を受けることができた。 当時の韓国は社会的に非常に厳しい時代だったが、人々の明るい表情を見ながら非常に多くのことを学んだ。
あれから40年近い歳月が流れた。 中央日報・中央デイリーの記事にも出ているように、今では韓国に住む外国人の数もかなり増えた。一方、韓国も過去の米国のように若者を世界各国に派遣している。 昨年カンボジアに出張した際、現地の地方の学校で教育ボランティアをしている韓国人青年に会い、そのプロ精神に感動したりもした。
一つ、心から助言したいことがある。 私の祖国である米国の国民は喜べない別名を持つ。 「醜いアメリカ人」(Ugly American)というものだ。 大部分の米国人ではなく、一部の米国人の行動のために、米国全体のイメージが失墜するのは残念でならない。 ところがこの数年間、「醜い韓国人」という言葉が出ているという話を聞いて悲しくなった。 こういうことがなければよいというのが私の思いだ。
私はこれからも韓国に住みながら韓国が世界に出て活躍するのを見守っていきたい。 健闘を祈る。
▽エドワード・リ―ド・アジア財団韓国支部代表(アジア財団は米国政府や各種国際機構の支援を受けてアジアの開発途上国を支援する団体)
実際、私はフランス語が使われる西アフリカ地域へ行くことを希望していたし、韓国に来たのは失敗かもしれないと考えていた。 しかし今ではむしろ韓国に来たことを感謝している。 そう考えるようになったことにはいくつか理由がある。 まず政治に対する国民の情熱だ。 韓国を愛する気持ちが芽生えたきっかけも、韓国人の友人についていって聞いた金大中(キム・デジュン)氏の演説だった。
しかし何よりも韓国に対する愛情が深まったのは普通の韓国人の生活に接したことだ。 平凡な韓国人の家族と一緒に暮らしながら、韓国語・韓国文化・韓国の伝統について生きた教育を受けることができた。 当時の韓国は社会的に非常に厳しい時代だったが、人々の明るい表情を見ながら非常に多くのことを学んだ。
あれから40年近い歳月が流れた。 中央日報・中央デイリーの記事にも出ているように、今では韓国に住む外国人の数もかなり増えた。一方、韓国も過去の米国のように若者を世界各国に派遣している。 昨年カンボジアに出張した際、現地の地方の学校で教育ボランティアをしている韓国人青年に会い、そのプロ精神に感動したりもした。
一つ、心から助言したいことがある。 私の祖国である米国の国民は喜べない別名を持つ。 「醜いアメリカ人」(Ugly American)というものだ。 大部分の米国人ではなく、一部の米国人の行動のために、米国全体のイメージが失墜するのは残念でならない。 ところがこの数年間、「醜い韓国人」という言葉が出ているという話を聞いて悲しくなった。 こういうことがなければよいというのが私の思いだ。
私はこれからも韓国に住みながら韓国が世界に出て活躍するのを見守っていきたい。 健闘を祈る。
▽エドワード・リ―ド・アジア財団韓国支部代表(アジア財団は米国政府や各種国際機構の支援を受けてアジアの開発途上国を支援する団体)
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