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<BOOK>朝鮮の世子12人の悲劇「王になれなかった世子ら」



王位の継承者でありながらも王になれなかった朝鮮(チョソン、1392-1910年)時代の世子が27人にものぼる。

うち殺害または廃位となった世子が5人、病死した世子が6人で、王朝の滅亡を体験した世子もいる。最近、成均館(ソンギュングァン)大学国家経営戦略研究所・研究院のハム・キュジン氏が出版した「王になれなかった世子ら」(キムヨン社)は、王位に就けなかった悲運の世子らの生涯を収めている。


朝鮮初めての世子である宜安(ウィアン、1382-1298、李芳碩)大君は17歳のとき、腹違いの兄によって刺殺された。愛する末の子を後継者にしたいとして、嫡孫(ちゃくそん)でもなく、功労もない子どもを世子に冊封した太祖の決定が骨肉相争む争いを招いた。

譲寧(ヤンニョン、1394-1462)大君は自身よりはるかに優れた能力を持つ弟の忠寧(チュンニョン、1397-1450)大君に王位を譲った。彼は意図的に狂った振りをし、逸脱を続けて結局廃位とされた。後ほど、世宗(セジョン)大王になった忠寧大君は、朝鮮最高の太平な世を成す。譲寧大君の逸話は美談として伝わっている。

王の息子である以前に権力のナンバー2という事実は、度々必然の悲劇を呼び起こした。仁祖(インジョ、1595-1649)は世子を露骨に警戒し、太宗(テジョン、1367-1422)と英祖(ヨンジョ、1694-1776)は自らの政治的スタンスを固めるため、世子に譲位するという偽りの宣言を繰り返したこともある。

▽王が老いて病気になり、臣下らが「浮上する太陽」の世子の方向へ向かう場合▽戦争や災難で王の権威が揺れる場合--などに王は世子から極度の脅威を感じた。世子27人のうち、最も悲劇的な生涯を送った人は照顯世子(ソヒョン、1612-1645)だ。清代で8年間も人質となった後、故国に帰ってきたものの、冷酷な父の警戒と疑いの中、帰国から2カ月後に死去した。

英祖も息子、思悼(サド、1735-1762)世子の死にかかわった。英祖が世子を米びつに閉じ込めた「米びつ事件」は有名だ。しかし、世子を実際に米びつに閉じ込めたのはほんのしばらくの間で、思悼世子は世子というポストが与える圧迫感に耐えられなかった気質のため、死に至ったという見方が信憑(しんぴょう)性を得ている。英祖は頻繁に「譲位宣言」を政治的なカードとして活用したが、それが世子をパニックに陥らせ、異常な行動につながったということだ。

朝鮮初めての世子、李芳碩(イ・バンソク)がそうだったように、朝鮮最後の世子も王位に就くことができなかった。大韓帝国(朝鮮末期)最後の皇太子、英親(ヨンチン、1897-1970)王は11歳のとき、強制に日本に送られ、日本の皇族と結婚した。光復(解放)後に韓国行きを望んだが、新しく発足した政権の反対により帰国できず、1963年、57年ぶりに祖国に戻ることができた。朝鮮王朝時代の世子でありながら、日本の皇室の一員だった同氏の曖昧(あいまい)なアイデンティティーは悲劇の原因であり、結晶体であった。



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