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正祖を盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領と比較して非難された人は兪弘濬(ユ・ホンジュン)元文化財庁長だった。 彼は2004年、「正祖が盧大統領と進む道が最も似ている」とし「遷都は権力の分散を意図したものだったが、正祖は老論(朝鮮時代の党派)勢力が、盧大統領は保守勢力が反対して失敗した」と話した。 首都移転公約が挫折した大統領に対する慰めか阿諛かは本人しか分からないことだが、正祖の改革イメージを高く評価することから出てきた発言であることには間違いない。 正祖を改革君主として称える人たちも1792年のいわゆる「文体反正」に対しては困惑する。
正祖は燕巖・朴趾源(パク・ジウォン)の『熱河日記』など当時流行した書冊や清からの輸入書籍を禁書とし、品格のある古文の世界に立ち返ることを強要した。 燕巖は、一種の転向書格の自訟文を模範的な文体で書けば弘文館大提学の地位を与えるという提案を拒否した。 当時、知識人にとって文体が思想であったことを勘案すると、文体反正は朝鮮知識人社会にようやく芽生えた新しい気流と変化の芽を摘み取る一種の思想検閲だった。 正祖の文体反正を守旧思想の産物ではなく、蕩平策(朝鮮時代の党派の争いをなくそうとした政策)のための高度な政治行為と解釈する学者もいる。 文体反正の波が広がった後、老論系列の人物がそろって正祖の支持者に転向した結果に注目する視点だ。 蔡済恭(チェ・ジェゴン)・丁若鏞(チョン・ヤクヨン)・李家煥(イ・カファン)など微弱だった南人勢力が正祖の擁護で自分たちの声を出すようになったのも文体反正と無関係ではない。
正祖が右議政・沈煥之に送った手紙299通が200余年の塵を払いのけて一昨日公開された。 この手紙は‘純正之文’へ戻ろうという文体反正の首唱者が書いた文とは信じがたいような表現が多い。 市井の俗語や諺、ハングルと吏読を混ぜて書いた表現も少なくない。 圧巻は側近臣下を「胡種子」、すなわち蛮夷の種子と呼ぶ部分だ。 これは「ホロ息子(教養のない人)」をやや控えて表現したものにすぎない。 もともとこの言葉は、丙子胡乱のときに捕虜として連れて行かれた女性が産んだ私生児を侮蔑する言葉だったから相当な侮辱だ。 謹厳な国王の肉筆書簡で卑俗な言葉が出てきたというのは驚くべきことだ。 語彙の選択にためらいがなかったという点で、盧前大統領との共通点がまた一つ増えたかどうかは知らない。 とにかく後人は「聖君正祖」の代わりに「人間イサン」を再発見することになった。 読んだ直後に破棄しろという王の命令を破って沈煥之が後世に伝えてくれたおかげだ。 謹厳なイメージに結果的に傷を残した臣下の不忠に土の中に眠る正祖が怒っているのか、寛大に許しているのかが気になる。
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