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唐の詩人高適は杜甫より10歳上。しかし2人は非常に親しかった。高適は杜甫との年の差にもかかわらず、彼の詩才を特に大事にした。戦乱を避けて今の中国の四川であちこちに流れた杜甫にとって、官位にいた高適は心強い後援者だった。
ある年の正月七日、高適は杜甫に詩を書いて送る。「今年の人日、ただ追憶しかなくて / 来年の人日にはそなたはどこにいようか(今年人日空相憶、明年人日知何処)。詩の中の句節だ。杜甫は涙でこの詩を読む。年を忘れた2人の友情が濃く染み出た作品と知られている。
ここに出る人日は旧暦正月七日を「人の日」と決めた東洋の伝統から始まった。普通、人日、または人の日と呼んだりする。旧暦初七日をどうして人の日と決めたのか正確な理由を明らかにすることは難しい。記録で見たとき、中国では漢の時代に、すでにこの日を記念していたものとわかっている。
日本でもこの日を人日と呼び、全国的に犯罪者に対する刑執行を1日間、停止したりした。江戸時代に定着したこの日には七種の野菜を入れて煮たお粥を食べる習慣があったと伝わる。
韓半島でもこの日は特別だった。高麗時代以来、人日はずっと王と臣下、民間のすべての人が特別、記念する日だった。宮廷では王が臣下たちに銀で作った髪飾りを下賜する習俗があった。時によって王はこのごろの特別賞与給にあたる禄牌を臣下たちに下す場合もあった。
民間ではこの日1日、働かずに休む習俗があった。慶尚南道地域では初七日が人の日、次の八日は穀食の日だとして「七人八穀」という成語を作って記念した。
朝鮮時代には特に人の日に貴重な人材を選ぼうという次元で「人日製」という特別科挙を行ったため、この日が単純に要式的な行事にとどまらず、人を尊く思って大切にしようという趣旨の制度として定着したことがわかる。
1日が旧暦初七日。もう東洋で忘れられた人の日だった。ちょうどテレビでは無惨な殺人容疑者カン・ホスンがカメラの前に立って記者たちの質問に答えていた。連日、彼の余罪暴きだけが話題だ。悪魔のような彼の犯罪行為が大きな問題ではあるが、人の価値と大事さを忘れていく我が社会全体の水準には問題がないのか考えてみる話だ。
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