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【噴水台】戦艦大和



20万人の死傷者を出した人類最初の原子爆弾がよりによって広島に落ちた理由は何か。 罪なく犠牲になった市民としては‘なぜ自分たちが’という気持ちだろうが、米軍首脳部の立場では「高度な戦略的価値を持つ都市」という選択基準に適合する地域だった。 日本陸軍第2銃軍司令部と第5師団司令部のほか、三菱重工業など数十カ所の軍需工場が密集した軍事都市だったからだ。 その広島の戦略的価値をさらに高めたのが、すぐ隣にあった日本屈指の軍港であり造船基地である呉だった。

日本人には呉と関連したもう一つの辛い記憶がある。 1941年に呉海軍工廠で完成した戦艦大和は敵国米国の艦艇を圧倒する史上最大の戦艦だった。 大きな船に大きな大砲を備え、敵の射程圏外から連射すれば難なく制海権を掌握できるという、いわゆる‘大艦巨砲主義’の産物だった。 排水量7万2800トン、全長314メートルの巨艦を日本独自の技術で、それも極秘で4年間で建造した後、日本軍部は大和さえあれば絶対に負けないという自信に陥った。


しかしいざ実戦に投入された大和が収めた戦果は小さなものだった。 すでに海上戦の様相が航空母艦塔載機が主導する機動戦に変わっていたからだ。 大和は工学的には成功したが、作戦には失敗した船だった。

大和の最期は悲惨だった。 45年4月、沖縄まで北上してきた米軍の本土上陸を阻止するために出港した大和は、米軍機386機のじゅうたん爆撃を受けて沈没した。 搭乗兵士3332人のうち生存者は276人だけだった。 大和を護衛した日本戦闘機が1機もなかったのだから当然の結果だった。 第2次世界大戦の末期、日本軍のすべての戦闘がそうだったように、戦死者の中には10代の少年が多かった。 日本軍指揮部はそのような結果をはっきりと予想しながらも、‘一億総玉砕’の模範を見せるために無謀な出港を敢行したという記録が出てきたりもした。

最近、呉の有志を中心に九州沖に眠っている大和の引き揚げを推進しているという報道があった。 60余年間も海の下でさまよっている霊魂を慰めるためのものであれ、金儲けのための観光資源化が目的であれ、生きた歴史の証拠を復元するということには異論はない。 にもかかわらず大和引き揚げのニュースには何か胸に引っかかるものがある。 狂気の歴史を繰り返さないという教訓の資料として活用されるべき戦争遺物が、侵略の歴史を美化し盲目的な愛国心をあおるものに変わる例を何度も見てきたからだ。 過去の過ちと断絶できなければ、脳裏のどこかに刻印された形状記憶合金は元に戻ろうとするものだ。



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