村上は「ウルトラマラソンでマラソンに関する形而上学の境地を体験した」と述べている。最後の段階では肉体的苦痛のほかに、自分が誰なのか、今何をしているのかさえも頭から消え去っていく。実に不思議な気分だ。この状態では、走る行為がほぼ形而上学的な領域に達している。行為が先にあって、行為に付属した存在として自分がいる」--。哲学者デカルトの「私は考える、ゆえに私はある」という言葉をもじって村上は「私は走る、ゆえに私はある」と話す。誇張しすぎていないか。いや、違う。執筆しない村上の存在は無意味で、走らずにひたすら執筆する村上は想像できない。
『走ることについて語るときに僕の語ること』は、ランニングとウォーキングをに励む人、小説を書いてみたい人、詩のように輝く散文を読みたい人にぴったりの1冊だ。
『走ることについて語るときに僕の語ること』は、ランニングとウォーキングをに励む人、小説を書いてみたい人、詩のように輝く散文を読みたい人にぴったりの1冊だ。
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