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むやみに争わないのが喧嘩の定石だ。 つまらないことで殴り合うのは本当の喧嘩ではない。 人と本当に争うということは命を懸けることだ。 こうした決意もなく人と争えば、それはただの感情の発散にすぎない。
米国初代財務長官であり、最近10ドル紙幣の顔になったアレクサンダー・ハミルトンは決闘で命を失った。 1804年、副大統領だったアーロン・バーが新聞で自分を非難したという理由で決闘を申し入れたからだ。信号の銃声と同時にお互い拳銃を撃った2人のうち、先に倒れたのはハミルトンだった。
中国でもし争いが生じ、相手の中国人が「お前は俺と喧嘩をしようというのか?」と尋ねてきた場合、自信がなければ「いや、ただ…」と言葉を濁せばよい。 「喧嘩をする」といって跳びかかれば、命を懸けて争う状況にまでなることを忘れてはいけない。
中国人の喧嘩は械闘になることが多い。 機械、すなわち武器を手に持ってする喧嘩だ。 少なくとも出血、ひどければ命も失いかねない喧嘩だ。 このため、些細なことで人と争わないのが中国人の習性だ。 海の向こうの日本も同じだ。
1883年に朝鮮に来た米国人パーシバル・ロウェルは、韓国人の喧嘩についてこういう文を残した。 「(2人の)喧嘩を目撃した時、地面で転がっている二つの服の塊が、ひたすら黒い髪の毛の塊を必死に握ったまま凄まじく引っ張り合っていた…」(『私の記憶の中の朝鮮、朝鮮の人たち』チョ・キョンチョル訳・イェダム)
泥まみれの凄絶な喧嘩を目撃した異邦人の記録だ。 ロウェルは「2人を引き離すのは、困り切った友人に鋭い知恵を出そうとする場合のように非常に難しいことだだ」と感想を書いた。 お互いが大切にしている結い髪をつかんで繰り広げる肉迫戦だ。
韓国の喧嘩は大体こうした感じだ。 最も重要な部分に触れて自尊心を傷づける方法。しかしこうした喧嘩には傷ついた感情以外に明確な結論がない。 韓国の政治家が最近国会で見せた喧嘩も間違いがなく同じ姿だ。妥協したというが、電ノコとハンマーまで動員した結果としてはあっけない。
最初からこうなるのならもっと対話をしなければ。 国民の観戦の感想はこうだ。 「泥沼で取っ組み合う獣の争い」。 泥田闘狗。
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