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ある一言がひとりの人間の人生を変えることがある。よい人との出会いと同じぐらい、よい言葉に出会うことも重要だ。自分自身を振り返ってみても、その一言一言が自分を造り上げているような気がする。韓国との縁を考えても同じことが言える。父は付き合いのある韓国人教授を指して「この先生は日本人の中にはいない人格の持ち主だ」と幼い自分に時々言っていた。この父の一言が韓国と深い縁を結ぶきっかっけとなった。高校1年の時のことだった。
父は時々、息子4人(男4人兄弟のうち自分は次男)と一緒に夕食を食べながら、食事が終わった後も1時間以上いろいろな話をしてくれた。当時、2人の弟はまだ幼く、父の言葉をよく理解できなかったため、いつも途中で席を立ち、受験生だった兄も途中で席を外した。このため、父の話しを最後までいつも聞いているのは自分だけだった。当時、会社を経営していた父は自分が歩んできた人生の話や社内で起きるさまざまな人間関係を聞かせてくれ、‘理外の理’という言葉を用いて話してくれた。
この言葉は父が作った四字熟語だった。この話は「世の中には論理的には理解のできない、自分にとってマイナスと思われることが多いが、むしろこれらが自分には大きなプラスになる。だから損害を被ることを恐れてはいけない」という意味だ。
これはまさに父の人生観を表現した言葉だった。母がよく不満をこぼすほど、常に父は会社と職員のために自分の給与を割いていた。また父は「逆境を耐え抜いた経験が、後の人生の大きな支えになる」と強調した。今考えてみると、食卓で向かい合い聞かされた父のさまざまな話が自分の人生に一番大きな影響を与えた。
もちろん父以外にも、自分に素晴らしい言葉を贈って下さった方々は多い。中学時代の校長先生もこのような方だった。
校長先生は毎週月曜日の朝、校庭に全校生を集めて例を挙げながら、教訓となる話をしてくださった。この中のひとつに「一を聞いて十を知る人間より、一を聞いて十の疑問を持つ人間になれ」という話があった。そして自分は「一を聞いて十が分かる天才にはなれなくても、十の疑問を持つことはできる」と思い、このようにすることに決心した。この後、校長先生の言葉が無意識のうちに働き、探究心の強い人間に変わっていった。
そして大学生になると、「日本はなぜ侵略国家になったのか」と疑問を感じ、この問題を解くという方向に探究心は動き始めた。
大学に入学する際、父の勧めで工学を学ぶ学生になったが、本来は歴史の勉強が好きで、高校時代にさまざまな歴史の教材を小説のように愛読していた。大学で工学を学びながらも、「いつか自分の専攻が変わるだろう」と漠然に考えていたが、数年後に韓国に来ることになり、現実となった。
1977年ごろに在学していた東京大学は創立100周年を迎えた。ところが、この記念行事を反対する学生が意外に多かった。理由は「東京大学が日本近代史で日本帝国主義の先鋒に立ったから」というものだった。‘アジア侵略の先鋒に立った東京大学’というポスターが当時、キャンパスのあちこちに貼ってあった。この当時、自分の通っていた大学に悪い過去があることをよく知らなかった。
ちょうどそのころ、ある雑誌で偶然知った‘日本人による明成皇后(閔妃)殺害事件’は自分に大きな衝撃を与えた。これらは自分が抱いていた疑問と探究心を刺激し、日本がアジアを侵略した理由を研究するという決心を固くさせた。彼らの一言がきっかけになり、今、韓国に住んでいることを誇りに思う。
世宗(セジョン)大学・保坂祐二教授(日本学)
<略歴>東京大学工学部卒業、高麗(コリョ)大学政治学博士、世宗大学教養学部教授、世宗大学独島(トクト、日本名:竹島)総合研究所長
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