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ハーグ密使事件(1907年に高宗が李儁らをハーグ万国平和会議に出席させ、乙巳保護条約の締結が韓国皇帝の意思に反し、日本の強制によるものであることを暴露、これを破棄しようとした事件)で、朝鮮(チョソン、1392~1910年)第26代王の高宗(コジョン)が廃位され、長男の純宗(スンジョン)が大韓帝国(朝鮮が1897~1910年に使っていた国号)最後の皇帝に即位した1907年。
10歳の栄親王、李垠(イ・ウン、高宗の7番目の息子)が皇太子に冊封(さくほう)された。同氏は即刻、伊藤博文初代朝鮮統監の圧力により日本に留学する。栄親王の生母、純献(スンホン)皇貴妃・厳(オム)氏は皇太子が休みのたび朝鮮を訪問する条件で留学を許した。だが厳氏は1911年に世を去るまで、息子の栄親王に再会することができなかった。
日本で亡国の悲しみに浸っていた栄親王の遺品が韓国に戻ってきた。同氏が日本で暮らした時代に着ていた服6着と19枚の写真が、1日、淑明(スクミョン)女子大に寄贈された。今回同校に遺品を寄贈した人は、車吉辰(チャ・キルジン)韓国仏教新聞社長。車氏は03年に宮内庁の官吏だった知人から遺品を得た後、保管してきた。
これまで栄親王の遺品はソウル大博物館と韓国学中央研究所に保管されたアルバムがほぼすべてだった。日本での生活を収めた写真と衣服は今回初めて公開されるわけだ。写真の中には、太平洋戦争の最中だった43年、栄親王夫妻が旧日本軍の部隊と学校を訪問し激励する諸場面も含まれている。亡国の皇太子が、日本軍国主義の宣伝に動員された「胸痛む」証拠だ。栄親王は日本が敗亡した後の63年に帰国、70年に死去した。
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