ハーグ密使事件(1907年に高宗が李儁らをハーグ万国平和会議に出席させ、乙巳保護条約の締結が韓国皇帝の意思に反し、日本の強制によるものであることを暴露、これを破棄しようとした事件)で、朝鮮(チョソン、1392~1910年)第26代王の高宗(コジョン)が廃位され、長男の純宗(スンジョン)が大韓帝国(朝鮮が1897~1910年に使っていた国号)最後の皇帝に即位した1907年。
10歳の栄親王、李垠(イ・ウン、高宗の7番目の息子)が皇太子に冊封(さくほう)された。同氏は即刻、伊藤博文初代朝鮮統監の圧力により日本に留学する。栄親王の生母、純献(スンホン)皇貴妃・厳(オム)氏は皇太子が休みのたび朝鮮を訪問する条件で留学を許した。だが厳氏は1911年に世を去るまで、息子の栄親王に再会することができなかった。
10歳の栄親王、李垠(イ・ウン、高宗の7番目の息子)が皇太子に冊封(さくほう)された。同氏は即刻、伊藤博文初代朝鮮統監の圧力により日本に留学する。栄親王の生母、純献(スンホン)皇貴妃・厳(オム)氏は皇太子が休みのたび朝鮮を訪問する条件で留学を許した。だが厳氏は1911年に世を去るまで、息子の栄親王に再会することができなかった。
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