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しかし危機克服の裏面には大統領のリーダーシップとそのリーダーシップを信じて預けた国民の結束があった。
金大中(キム・デジュン、顔)当時大統領は危機を迎えるたびに直接立ち上がった。当選3日後、デービッド・リプトン米国財務部次官に会い「面接試験」まで受けた。
新政府の改革意志を信じていなかった米国にIMF協約以上の改革をすると約束した。DJが約束した「IMFプラス」にはリストラも入っていた。リストラはDJの政治的基盤である労働界が決死反対してきた事案だった。DJも先送りしたかった事案でもあった。DJがこれを譲歩しながら面接は成功し、米国の支援を導き出すきっかけとなった。
必要なときは直接出て真率に国民を説得した。国民との対話で「金庫が空いた」と率直に認めて、改革に賛同してほしいと訴えた。財閥改革がずるずる長びくと5大財閥総帥にも直接会って圧迫した。
危機克服の核心は人事だった。彼は「コード人事」を減らす代わりに必要なポストには力のある人を抜擢した。李憲宰(イ・ホンジェ)当時非常経済対策委企画団長を金融監督委員長に座らせたのが代表的だ。
李元金融監督委員長は大統領選挙当時、敵陣であるハンナラ党李会昌(イ・フェチャン)候補陣営を支援した前歴があったが、こだわらなかった。何の縁もなかった李揆成(イ・ギュソン)元財務部長官を財政経済部長官に起用した。こうした経済部の人事は、当時共同与党である自民連の意見を多く反映したとしても、DJが危機を乗り越える力を優先させたことだけは間違いない。
誰かをひいきすることもなかった。政府発足3カ月で金泰東経済首席と康奉均政策企画首席を交換したこともそんな事例だ。経済省庁とことごとく合わずに雑音ばかり続いた金首席を後ろに下げたのだ。金首席は「DJノミックス」を築くのに深く関与した学者だったが、縁にこだわらなかった。危機克服過程でチームワークがまともに作動するように大統領が交通整理をしてくれたのだ。
経済副総理をなくしたが「コントロールタワー不在」による混線はなかった。DJが部処間の役割を明確にした上、李揆成財政経済部長官が長兄の役割を十分にやりこなしたからだ。過去、経済副総理が駐在した経済対策調停会議は自分が直接駐在して内閣に緊張感を吹きこんだ。
これによる国民の積極的呼応が決定的だった。タンスの中にしまっておいた金の指輪まで持ちよった金集め運動はその象徴だった。史上初めて労働界が財界・政府とともに集まって労使政委員会活動を始め、タブー事案だった整理解雇法制化を受け入れた。
このような努力の結果としてDJは就任後1年半の1999年8月15日、通貨危機の克服を宣言することができた。大宇グループ問題など問題は散在したが、為替(1207ウォン)、コール金利(4.67%)、外貨保有高(647億ドル)など経済指標は正常軌道に向かうことができた。
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