そのカダフィが態度を一変したのは2003年だった。 その年の12月、米国と大量破壊兵器の廃棄に電撃合意すると、翌年には正式に国交を結んだ。 力が増していたブッシュ行政府のネオコンは「イラク戦争を見守っていたカダフィが第2のフセインにならないか怖気づいて手をあげた」と自画自賛した。 実はそれ以前からカダフィは「革命後に維持してきた社会主義経済体制が効率的に作動していない」と自己批判した後、国際社会に扉を開こうとしていた。
リビアの変化に言及する度に比較対象に挙げられる国が北朝鮮だ。 リビアが核放棄を宣言した2003年は、第2次北核危機が本格化した時期だった。 北朝鮮は‘先に核放棄、後に関係改善’のリビアモデルを無条件降伏に例えながら拒否した。 先に‘武装解除’すれば、米国の考えが変わるのは明らかだ、という論理だった。 その代わりに持ち出したのが、朝米が同時に段階的措置を履行していくべきだという‘同時行動の原則’だ。
リビアの変化に言及する度に比較対象に挙げられる国が北朝鮮だ。 リビアが核放棄を宣言した2003年は、第2次北核危機が本格化した時期だった。 北朝鮮は‘先に核放棄、後に関係改善’のリビアモデルを無条件降伏に例えながら拒否した。 先に‘武装解除’すれば、米国の考えが変わるのは明らかだ、という論理だった。 その代わりに持ち出したのが、朝米が同時に段階的措置を履行していくべきだという‘同時行動の原則’だ。
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