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【開幕式を見て】「中華」優越意識の落とし穴にはまったのでは…

北京五輪の開会式は華麗かつ雄大な「真夏の夜の夢」だった。なぜ中国を「中華」と呼んだのか、その理由に気付いたことだろう。

中華の「中」は真ん中の中であり、「華」は牡丹のように大きく心引かれる花を意味する。文字通り09年8月8日8時からの数時間の間、確かに世界の中心は中国にあり、北京はそのど真ん中に咲いた人類文化文明の巨大な花となった。

中華文化圏で呼吸してきた韓国人としては毎瞬間これ以上ない親近感を覚える恍惚(こうこつ)とした場面の連続だった。


天円地方(てんえんちほう。天は円く、地は方形であるという古代中国の宇宙観)の象徴や天人合一(てんじんごういつ。人の言行は正しければ、天の意志と合致する)の太極の図形に繰り広げられるパフォーマンスは、いずれも我々のものと錯覚するほどの感動を与えた。

文化大革命時代に排斥された孔子の華麗な再生にさらに驚かされた。「朋(とも)あり遠方より来たる、また楽しからずや(有朋自遠方来、不亦楽乎。遠方から同好の志がやって来るのはなんと楽しいことではないかという意味)」という論語の冒頭を飾る孔子の言葉が40億人にのぼる世界の人々に送る歓迎あいさつとして絶妙に蘇ったのだ。

ところが問題はこの言葉の後に登場する「人知らずして慍みず、また君子ならずや(人不知不慍、不亦君子乎。人が自分の真価を認めてくれないことより、自分が人の真価を知らないことを心配すべきであるという意味)」という一節を、中国人やそれを観覧する人いずれもが忘れていたのではないかという点が気にかかった。

人海戦術の波のように押し寄せる映像が巨大であれば巨大であるほど、中国の偉大性を強調すれば強調するほど、我々は「不亦君子乎!」と感嘆できる場面は見つけにくい。

自国の文化を誇る優越意識の裏には、やむを得ず劣等意識が潜んでいるものだ。近代の西欧文化を取り入れる過程で、自身の伝統文化を抹消し、その歴史から抜け出そうとしたアジアの人々の場合が特にそうだ。近代化にある程度成功し、自信を持てば、今回は自身の文化を過大に包装する過剰行動に転じる。

西欧文明に対するこの微妙なコンプレックスから我々は誰もが自由でないのだ。四大発明品をはじめ中国の光栄なる歴史を再現するために張芸謀(チャン・イーモウ)監督が駆使したLED(発光ダイオード)の先端科学技術は、とやかく言うまでもなく西洋に起源を置く発明品だ。

すでに五輪自体がギリシャ文化の産物ではないか。アルファベット順をいくら漢字、それも簡体字の画数で数えて入場行進を決めるとしても、ギリシャは依然として五輪の発祥の地で最初に入場せざるを得ない。

よその祭りに文句をつけるつもりではない。中国に限らぬ落とし穴とワナが、北京五輪でも知らず知らず漏れているということだ。

北京五輪の開会式を見て拍手を送りながらも、ふとひっそりとした谷間を通る際、ひとり芳しく咲いた蘭を見て歌を作り、歌ったという「空谷幽蘭」の孔子の故事が頭に浮かぶ。他人に分かってもらえなくとも君子は意に介さず自足することができる…。

この君子の超然とした姿を強調したならば、世界の人々はより一層感動を受けただろう。



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