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広島の原爆ドームの前に立ったヒントンさんは「当時、自分は実験成功にただただ興奮していた何も知らない科学者だった」とし、言葉を失った。朝日新聞など日本のマスメディアによると、ヒントンさんは米国の原子爆弾の開発計画である「マンハッタンプロジェクト」に参加した。
終戦後、同僚とともにワシントン連邦政府を訪れ、原爆投下に抗議したヒントンさんは、その3年後に物理学者をやめ、上海に渡った。ヒントンさんは中国で出会った米国人男性と結婚し、酪農業に専念してきた。
ヒントンさんの存在が世に知られたのは、1951年に全米科学者連盟に送った1通の手紙が公開されたためだ。「広島の記憶-15万の命。一人一人の生活、思い出、夢と希望、失敗を瞬く間に奪い去ってしまった。自分はこの手であの爆弾を触っていた」--。
酪農業とともに反核平和活動も行っているヒントンさんは、日本滞在中に被爆者らと会う予定にしている。
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