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日本本土から南に1000キロ離れた小笠原諸島は当時、捕鯨の前哨基地で、重要な位置にあったため、米国と英国が目をつけていた。 先手を打ったのは自国の領土と刻まれた石碑を建てた英国だった。 続いて米国のマシュー・ペリー提督が日本に向かう途中、この島に上陸した。 艦砲外交で日本を屈服させて開港に導いたあのペリー提督だ。 ペリー提督は自国の捕鯨船に石炭を供給する貯炭所を建設するために小笠原総督を任命し、領有権を主張した。 外交交渉の末、この島が1876年に日本の領土として落ち着いたのは漁夫の利の産物だった。 英米がともに譲れないという計算から日本の領土への編入を了解したのだ。
当時、西欧列強の捕鯨船は東海(トンへ、日本名・日本海)にも頻繁に出没していた。最近まで蔚山(ウルサン)長生浦(チャンセンポ)港が捕鯨の前哨基地として有名で、釜山(プサン)チャガルチ市場で簡単にクジラの肉を買って食べることができた点からみると、東海の海にも多くのクジラが生息していたと考えられる。 「承政院日記」など朝鮮後期の記録によると、襄陽(ヤンヤン)沖と鬱陵島(ウルルンド)、独島(ドクト、日本名・竹島)などに異様船が現れたという報告が朝廷に相次いで入っていた。
その異様船の一隻が、1849年に東海に漂着したフランスの捕鯨船リアンクール号だった。 この船の船員が独島を西洋世界に真っ先に知らせた。 このため独島に‘リアンクール岩礁’(Liancourt Rocks)という名前が付いた。 リアンクールという名前は第2次世界大戦後、日本に進駐した連合国司令部の布告令など公式記録はもちろん、今でも西洋地図や文書に広く使われる。
独島でも竹島でもない‘リアンクール’という表記は、独島の帰属に関し中立を守ろうという意図とみられる。 しかし厳格に実効支配をしている韓国の立場からすれば有難くないことだ。 今までよく使用していた「独島」という分類キーワードを「リアンクール」に変えようとしていた米議会図書館の計画が、韓国系の司書キム・ハナさんの努力で保留となったのは非常に幸いなことだ。 しかしこうした事態になるまで政府は何をしていたのかと考えると、キムさんの孤軍奮闘にひたすら拍手を送ってもいられない。 いつまでもリアンクールというぱっとしない名前を放置しておくことはできない。 独島はあくまでも独島でしかない。 独島領有権の強化対策も本来の名前を取り戻すことから始まらなければならない。
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