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ビニロンの発明は「カロザースのナイロン発明に3年しか遅れをとらないわが民族科学者の快挙」と評価(陳政一・高麗大碩座教授、『科学、その偉大な好奇心』)されるほど学術的に優れた業績だったが、実用化の過程ではナイロンに押され、北朝鮮以外の地域では光を失った。
李升基博士は北朝鮮核開発の草創期過程にも参加した。 60年代に寧辺(ニョンビョン)に設立された原子力研究所の初代所長を務めたのだ。 北朝鮮は当時、ソ連の支援を受けて研究用原子炉を建設・稼働し、その経験を基礎に79年、5000キロワット級の原子炉に着工し、86年から稼働に入った。 現在まで2度の核危機を招きながらプルトニウムを作り出したその原子炉だ。
李博士のような第1世代の越北科学者が種をまいた北朝鮮核開発を本格軌道に乗せたのは、ソ連に留学した第2世代の科学者だった。 北朝鮮は寧辺原子力研究所設立以前の56年、ソ連と原子力研究協定を結び、モスクワ近隣のドゥブナ研究所に科学エリートを集中的に派遣した。 90年代初めまでソ連で核技術を習得した人材は300人ほどになる。 その代表的な人が、2006年10月に北朝鮮の核実験を主導したと伝えられるソ・サングク金日成(キム・イルソン)総合大学物理学部講座長だ。 98年のソ講座長の還暦には、金正日(キム・ジョンイル)国防委員長が誕生日の準備をして送ったという報道があったほど信頼が厚い。
先月27日の寧辺の冷却塔爆破当時、テレビ画面に出てきたイ・ヨンホ原子力研究所担保処長も、ソ連で技術を学んだ人物として知られている。 イ処長と並んで冷却塔の爆破を見守ったソン・キム米国務省韓国課長は、爆破の瞬間、イ処長の顔に「深い感情の動揺」が表れた、と話した。 寧辺で30年近く勤めたイ処長は「ここのすべての施設が息子のようなものだ」という言葉を取材陣に述べたという。 そのイ処長にとって、冷却塔の爆破は息子を失う悲しみのようなものだったのかもしれない。 しかも国際的な圧力にも負けず、西側の監視網を避けながら守ってきた核施設であるだけに、その愛着は相当なものだったはずだ。
イ処長は爆破後、「冷却塔の爆破が平和と安定に役立つことを願う」という言葉も残した。 イ処長の顔に表れた‘深い悲しみ’がそうだったように、‘平和と安定’に対する発言も本心であることを望む。 もちろん、その立証は北朝鮮当局の役割だ。
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