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慶尚南道鎮海市慶和洞(キョンサンナムド・チンヘシ・キョンファドン)で果物店を経営するチョン・チャンエさん(67、写真)は、家を出るとき、ボールペンを必ず持って出る。チョンさんはボールペンを“我が友”と呼ぶ。情のある方言で明るくほほ笑む彼女は9歳のころからペンを友として片手間で文を書いてきた。そしてその文を集めて最近、自伝的小説『故郷を離れた2人の兄妹の道』(生と夢、382ページ、1万2000ウォン)を出版した。
甘いマクワウリのにおいでいっぱいな店の片隅には彼女が“宝物”だという著書が山積みになっていた。果物と本を一緒に売るという。店には4人のお子さんが書いてくれたという「慶祝!」の幕がかかっていた。出版の感想を聞くと、ずいぶん長い間、遠い山を眺めてぽろりと涙をこぼした。
「立派な作家になろうと思ったことはありません。文を書かなければ耐えられないようで、書きなぐっておいたものを形にしたかっただけ。本を出してわんわん泣きました。感激的でもあったけれど、悲しくもあり… ろくに眠りにもつけませんでした」
何より亡くなったお母さんのことを思い出すという。慶南宣寧の貧しい農家出身であるチョンさんはお父さんが2つの家で暮らすことを知ったときも、お母さんが寝こんだときも、力を入れていた唐辛子農業が落ち込んでいったときもペンを取って傷ついた心をなぐさめた。ペンはつらいとき、気持ちをなだめてくれるパートナーだった。
チョンさんは学校の入口すら行けなかった。代わりに新聞が国語の先生の役割をした。新聞を見ながらハングルを学び『沈清伝』『薔花紅蓮伝』のような連載小説を読み、文の面白さにはまった。読むと決まって町の子供たちに話を聞かせる語り手の役もした。そうして文を書き始めた。
「うれしいときも、悩み苦しむときも、ただペンで自分の気持ちを書けば気持ちが楽になりました。ご飯を炊きながらも文を書き、のりを採るときも書き、リンゴを売りながらも文を書きました。狂った人のようだと後ろ指もたくさん指されましたが、文を書かなければ耐えられないのを、どうしろというのでしょう」
そのようにして書き溜めたメモが数千枚。物書きの果物店のおばあさんがいるといううわさに、地元の新聞や放送局が次々訪れてきた。地元では有名人になった。ある日、本を出したいと思い、これを原稿用紙に移して整理した。そして新春文芸(文学作品公募展)にも出してみた。
「普通はそこまで考えられないでしょう。こうして本を出せたのでそれで十分。私はペンさえあればいい。でもしきりに周辺の話を書きたくなりまる。若い人々に言いたいことがあるから」
何の話をしたいのか。
「どんな状況でも生きていかなければならないということ。階段を1段ずつきちんきちんと踏んでいけば、どんな大変なことも過ぎ去るもの。私は生きる中でそれを学びました。難しいことを経験する度に本を書く材料になると思えばいい。文を書くことは私が世の中と通じる方法です」
何か書いてくれと頼んだら、マクワウリの箱を破いて膝に載せて書き始めた。
「一昨日、かわいくにこにこ笑っていた桜たちはどこかへ行ってしまったね/友がいなくなって今は1人だからさびしい」
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