7月がもうすぐ終わる。7月は革命の月だ。まずは4日、米国の13州の代表者がフィラデルフィアで独立を宣言した。14日、フランスの怒った群衆がバスチーユ監獄を奪還した。26日、キューバのカストロの組織がモンカダ要塞を襲撃した。順に米国革命、フランス大革命、キューバ革命の名場面だ。陽暦でなく陰暦だが、高麗から朝鮮への易姓革命も7月だ。17日、李成桂(イ・ソンゲ)が韓半島(朝鮮半島)の新しい国王に即位した。即位した初期は高麗の国王であり、まだ開京(ケギョン)宮廷だった。
第1次世界大戦(1914)も7月だ。28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。オーストリアの皇太子夫妻がセルビア系ボスニア青年に殺害されたサラエボ事件が原因だった。事態は拡大し、欧州各国が瞬く間に戦争に突入した。サラエボは世界卓球選手権大会(1973)と冬季オリンピック(1984)が開催されたユーゴスラビアの都市として記憶されているが、もともとはオーストリアが併合したボスニアの首都だった。ボスニア併合が断行された当時、日本内閣が韓国併合を決議したのは偶然の一致だったのだろうか。
日清戦争(1894)も7月だ。日清戦争が正確にいつ始まったかは観点によって異なるが、清国と日本の間で宣戦布告があった8月1日以前にすでに交戦は始まっていた。7月25日、朝鮮の西海(ソヘ、黄海)豊島(プンド)で海戦が発生し、3日後に朝鮮忠清道(チュンチョンド)成歓(ソンファン)で陸戦が起きた。欧州の世界大戦とは違い、宣戦布告前に日本の奇襲攻撃で戦争が始まった。開戦に関する国際法は日露戦争を経験したロシアによって第2回ハーグ万国平和会議(1907)に正式化される。
◆日清戦争の分岐点となった鴨緑江海戦
日清戦争は世界海戦史で注目される事件だ。日清戦争の主な海戦には風島海戦、黄海海戦、威海衛海戦などがあるが、特に黄海海戦(鴨緑江河口の大東溝海戦)は近代の鉄甲火輪船の艦隊の間で繰り広げられた最初の大規模海戦だった。清国の艦隊と日本の艦隊を比較すると、前者は重砲で武装していたが速度がやや遅い半面、後者は速射砲が自由で速度がやや速かった。清国の艦隊と日本の艦隊はそれぞれ横陣と縦陣で戦闘したが、日本の艦隊の機動戦術が力を発揮し、結局、清国の艦隊は敗退した。
黄海海戦は日清戦争の分岐点だった。制海権を掌握した日本は水陸両面から清国の海軍基地がある旅順に向かった。黄海海戦の被害を復旧できない清国の艦隊は山東半島の威海衛に退却し、翌年2月の威海衛海戦で完全に壊滅した。結局、日清戦争は日本の勝利で終わった。日本としては光栄な戦争だったが、野蛮な戦争でもあった。旅順を占領した後、日本軍による旅順大虐殺は、日中戦争当時の南京大虐殺の狂気がすでに日清戦争で発散されたことを意味する。
朝鮮の海で発生した風島海戦は日清戦争で国際法を論じるのに適した素材だ。風島海戦の直後に蔚島(ウルド)近隣で発生した英国商船「高陞号」撃沈事件のためだ。風島は今日の京畿道(キョンギド)安山(アンサン)に属するが、安山側の大阜島(テブド)・霊興島(ヨンフンド)より忠清道(チュンチョンド)唐津(タンジン)側の蘭芝島(ナンジド)に近い。風島海戦は忠清南道牙山(アサン)に向かう兵力輸送船を護衛して回航していた清国の艦船が日本の艦船の攻撃を受けて起きた。日本の艦船は追撃の途中にまた高陞号と出くわしたが、清国の兵力を輸送していることを確認し、そのまま撃沈した。
日本艦船の「高陞号」撃沈は国際法違反なのか。日清両国の宣戦布告はまだなかったが、風島沖で事実上の戦時状況になったとすれば、そして風島沖に続いて蔚島沖で中立国の商船を利用した清国の兵力移動を確認してこれを撃沈したとすれば、これは戦時状況の交戦行為であるため、賠償の責任は船を撃沈した方ではなく船を利用した方にあるという論理が成立するのか。しかし風島沖で偶発的な戦闘があったとしても、まだ宣戦布告も風島海戦の便りも知らなかった中立国の船舶に戦時状況だとして任意に撃沈したとすれば、賠償責任は撃沈した方にあるのではないのか。(興味深い関連論文に東北アジア歴史財団のチェ・ドクギュ研究委員の『日清戦争と高陞号事件の国際法』がある)。
高陞号が撃沈された蔚島沖は、日本の艦船が正常な交戦権を主張できない朝鮮の海だった。日本が清国と任意に交戦を望むとしても、朝鮮が戦争当事国でない以上、朝鮮での日清戦争はあり得ない。まさにこうした点で、日清戦争の実質的な開幕となった7月25日の風島海戦の2日前、7月23日の景福宮(キョンボックン)占領に注目する必要がある。景福宮占領作戦は、日本が朝鮮で日清戦争を遂行できる名分と戦争で勝利する利点を得るために敢行されたものだった。
日清戦争で日本軍の最初の交戦相手は清軍ではなく朝鮮軍だった。当日午前0時30分、朝鮮の日本公使の電報を受けて龍山(ヨンサン)駐留の日本軍混成旅団が動いた。景福宮西門の迎秋門(ヨンチュムン)を通じて侵入した日本軍は午前4時ごろから午前7時の間に宮廷の内外で朝鮮軍と銃撃戦をした。朝鮮の国王を捜索した日本軍が銃剣を持って咸和堂区域に押し入って国王を警護する朝鮮軍を武装解除させた。幸い、王妃は国王と一緒にいたが、翌年の殺害事件の悲劇はここから始まった。宮中の宝物の略奪も強行された。
日本軍の景福宮占領は日清戦争で重大な事件だった。日清戦争のきっかけにはよく東学農民軍の蜂起が挙げられる。全ボン準(チョン・ボンジュン)の東学農民軍が官軍を撃破し、全州(チョンジュ)城を占領した後、朝鮮政府の清軍派兵要請があり、清軍派兵が日本軍派兵を誘発したことで、結局、日清戦争に発展したということだ。しかし逆に東学農民軍が再び蜂起したきっかけとして日清戦争の勃発を挙げるのがさらに重要な問題かもしれない。全ボン準の供招(犯罪事実記録)には、日本が宣戦布告なく朝鮮の都城に侵入し、王宮を撃破し、国王を驚動させたため、地方のソンビと一般の人が義兵を糾合し、日本と闘争したという記録がある。
【コラム】新たに読む日清戦争…1894年の銃声、日本の景福宮襲撃で始まった(2)
第1次世界大戦(1914)も7月だ。28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。オーストリアの皇太子夫妻がセルビア系ボスニア青年に殺害されたサラエボ事件が原因だった。事態は拡大し、欧州各国が瞬く間に戦争に突入した。サラエボは世界卓球選手権大会(1973)と冬季オリンピック(1984)が開催されたユーゴスラビアの都市として記憶されているが、もともとはオーストリアが併合したボスニアの首都だった。ボスニア併合が断行された当時、日本内閣が韓国併合を決議したのは偶然の一致だったのだろうか。
日清戦争(1894)も7月だ。日清戦争が正確にいつ始まったかは観点によって異なるが、清国と日本の間で宣戦布告があった8月1日以前にすでに交戦は始まっていた。7月25日、朝鮮の西海(ソヘ、黄海)豊島(プンド)で海戦が発生し、3日後に朝鮮忠清道(チュンチョンド)成歓(ソンファン)で陸戦が起きた。欧州の世界大戦とは違い、宣戦布告前に日本の奇襲攻撃で戦争が始まった。開戦に関する国際法は日露戦争を経験したロシアによって第2回ハーグ万国平和会議(1907)に正式化される。
◆日清戦争の分岐点となった鴨緑江海戦
日清戦争は世界海戦史で注目される事件だ。日清戦争の主な海戦には風島海戦、黄海海戦、威海衛海戦などがあるが、特に黄海海戦(鴨緑江河口の大東溝海戦)は近代の鉄甲火輪船の艦隊の間で繰り広げられた最初の大規模海戦だった。清国の艦隊と日本の艦隊を比較すると、前者は重砲で武装していたが速度がやや遅い半面、後者は速射砲が自由で速度がやや速かった。清国の艦隊と日本の艦隊はそれぞれ横陣と縦陣で戦闘したが、日本の艦隊の機動戦術が力を発揮し、結局、清国の艦隊は敗退した。
黄海海戦は日清戦争の分岐点だった。制海権を掌握した日本は水陸両面から清国の海軍基地がある旅順に向かった。黄海海戦の被害を復旧できない清国の艦隊は山東半島の威海衛に退却し、翌年2月の威海衛海戦で完全に壊滅した。結局、日清戦争は日本の勝利で終わった。日本としては光栄な戦争だったが、野蛮な戦争でもあった。旅順を占領した後、日本軍による旅順大虐殺は、日中戦争当時の南京大虐殺の狂気がすでに日清戦争で発散されたことを意味する。
朝鮮の海で発生した風島海戦は日清戦争で国際法を論じるのに適した素材だ。風島海戦の直後に蔚島(ウルド)近隣で発生した英国商船「高陞号」撃沈事件のためだ。風島は今日の京畿道(キョンギド)安山(アンサン)に属するが、安山側の大阜島(テブド)・霊興島(ヨンフンド)より忠清道(チュンチョンド)唐津(タンジン)側の蘭芝島(ナンジド)に近い。風島海戦は忠清南道牙山(アサン)に向かう兵力輸送船を護衛して回航していた清国の艦船が日本の艦船の攻撃を受けて起きた。日本の艦船は追撃の途中にまた高陞号と出くわしたが、清国の兵力を輸送していることを確認し、そのまま撃沈した。
日本艦船の「高陞号」撃沈は国際法違反なのか。日清両国の宣戦布告はまだなかったが、風島沖で事実上の戦時状況になったとすれば、そして風島沖に続いて蔚島沖で中立国の商船を利用した清国の兵力移動を確認してこれを撃沈したとすれば、これは戦時状況の交戦行為であるため、賠償の責任は船を撃沈した方ではなく船を利用した方にあるという論理が成立するのか。しかし風島沖で偶発的な戦闘があったとしても、まだ宣戦布告も風島海戦の便りも知らなかった中立国の船舶に戦時状況だとして任意に撃沈したとすれば、賠償責任は撃沈した方にあるのではないのか。(興味深い関連論文に東北アジア歴史財団のチェ・ドクギュ研究委員の『日清戦争と高陞号事件の国際法』がある)。
高陞号が撃沈された蔚島沖は、日本の艦船が正常な交戦権を主張できない朝鮮の海だった。日本が清国と任意に交戦を望むとしても、朝鮮が戦争当事国でない以上、朝鮮での日清戦争はあり得ない。まさにこうした点で、日清戦争の実質的な開幕となった7月25日の風島海戦の2日前、7月23日の景福宮(キョンボックン)占領に注目する必要がある。景福宮占領作戦は、日本が朝鮮で日清戦争を遂行できる名分と戦争で勝利する利点を得るために敢行されたものだった。
日清戦争で日本軍の最初の交戦相手は清軍ではなく朝鮮軍だった。当日午前0時30分、朝鮮の日本公使の電報を受けて龍山(ヨンサン)駐留の日本軍混成旅団が動いた。景福宮西門の迎秋門(ヨンチュムン)を通じて侵入した日本軍は午前4時ごろから午前7時の間に宮廷の内外で朝鮮軍と銃撃戦をした。朝鮮の国王を捜索した日本軍が銃剣を持って咸和堂区域に押し入って国王を警護する朝鮮軍を武装解除させた。幸い、王妃は国王と一緒にいたが、翌年の殺害事件の悲劇はここから始まった。宮中の宝物の略奪も強行された。
日本軍の景福宮占領は日清戦争で重大な事件だった。日清戦争のきっかけにはよく東学農民軍の蜂起が挙げられる。全ボン準(チョン・ボンジュン)の東学農民軍が官軍を撃破し、全州(チョンジュ)城を占領した後、朝鮮政府の清軍派兵要請があり、清軍派兵が日本軍派兵を誘発したことで、結局、日清戦争に発展したということだ。しかし逆に東学農民軍が再び蜂起したきっかけとして日清戦争の勃発を挙げるのがさらに重要な問題かもしれない。全ボン準の供招(犯罪事実記録)には、日本が宣戦布告なく朝鮮の都城に侵入し、王宮を撃破し、国王を驚動させたため、地方のソンビと一般の人が義兵を糾合し、日本と闘争したという記録がある。
【コラム】新たに読む日清戦争…1894年の銃声、日本の景福宮襲撃で始まった(2)
この記事を読んで…