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麻生一族の炭鉱徴用残酷史…慰霊碑に「朝鮮人」の字も刻ませなかった(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

納骨堂内部に安置されている遺骨箱。白い布の上に朴OO、金OOなど朝鮮人の名前が記されている。

だが、納骨堂の上に立てられた慰霊碑には「朝鮮人」という字さえなかった。当時麻生セメント側と交渉を行って慰霊碑と納骨堂を用意したが、麻生セメント側では最後まで「朝鮮人」と刻むことを拒否したという。パク氏は「今でも毎年麻生セメントの関係者が慰霊祭を行っているが、特に朝鮮人労働者を称えるものではない。当時の歴史を知る人が残っていない」と話した。

太平洋戦争(1941年~45年)末期になると筑豊地方の朝鮮人労働者の数が急増する。日帝が国民徴用令を朝鮮にも適用し始めたためだ。当時10代の中・高校生まで徴兵した日帝は不足した労働力を朝鮮人、中国人から賄わなければならなかった。

日本石炭統制会によると、筑豊地方の朝鮮人労働者比率は1941年13.36%(9213人)から、わずか3年後の1944年には32.94%(3万79人)へと3倍以上に増えている。


田川から遠くない飯塚も主要石炭生産地だった。飯塚は麻生家の領地だと呼んでもいいほど、あちこちで麻生家の影響力を確認することができる。市中心部には麻生飯塚総合病院と麻生専門学校、スーパーマーケットASOがあり、あちこちに麻生太郎副首相の選挙ポスターが目についた。麻生太郎氏はここで合計13回国会議員に当選した。

麻生鉱業の創業者・麻生太吉が麻生氏の曽祖父にあたる。飯塚にある麻生本家には今でも麻生家の人々が暮らしている。高さが2メートルほどの塀が100メートル以上続いた。豪勢な門を通り過ぎてしばらく歩いくと、運動場ほどの庭が現れた。

住宅管理人は記者に「麻生家は成金」と何度も強調した。麻生鉱業を母胎にした麻生グループは現在90社の子会社を率いる中堅グループに成長した。麻生太郎氏の妻の父は鈴木善幸元首相、母方の祖父は吉田茂元首相だ。



麻生一族の炭鉱徴用残酷史…慰霊碑に「朝鮮人」の字も刻ませなかった(1)


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