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日本政府の朝鮮学校差別70年、涙に濡れた「4・24」(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
◆朝鮮学校迫害の背後には米国連合軍

この映画で、朴監督は朝鮮学校閉鎖令の背後に連合軍総司令部(GHQ)の圧迫があったことを強調する。在日朝鮮人史を専攻した明治学院大学の鄭栄桓(チョン・ヨンファン)教授は製作スタッフとのインタビューで、解放当時に第8軍司令官のロバート・アイケルバーガー中将の日記を証拠として提示した。

鄭教授は「日記を見ると1948年4月の時点で『朝鮮で起きた暴動』という表現がある。これは済州4・3事件のことだが、彼は日本の朝鮮人が『アカ』と連帯して在日占領軍(米国極東軍)を困難に陥れるデモを起こすかもしれないという危険性を考えていた」と説明した。


また「同じ年の5月10日に実施された(北を除いた)『韓国』の単独選挙に影響を与えないように、(日本文部省に)それ以前に問題を処理してほしいとの要求をしたようだ」としながら「あくまでも教育問題だった朝鮮学校運動を反米闘争だと考え始めた。軍国主義支配下に奪われたものを取り戻そうとする要求を、冷戦という色眼鏡で見て、60万に過ぎない(在日同胞の)人々に集中的な抑圧を加えた」と説明した。

兵庫朝鮮学校のキム・ソクヒョ理事長によると、日本文部省はすでにこれより2年前に「少数民族を社会的紛争の要因とし、そのような集団を育成する学校設立を基本的に反対する」という覚書を出している。結局、1948年4月24日、戦争後日本で唯一の非常事態宣言が発令された。無数の犠牲の中には日本の銃に撃たれて死亡した16歳の金太一(キム・テイル)君もいた。

◆制服のチョゴリが切り裂かれても守る

朴監督は「今でも私たち同胞と良心的な日本人が朝鮮学校の差別に対抗した闘争を継続している」としながら「共にしてくれる人が1人でも増えることを希望して映画を作った」と話した。1949年にすべて閉鎖された朝鮮学校は、50年代以降、朝鮮総連と北朝鮮から支援金を受けて一つ二つと再興されたが日本右翼との葛藤を深くなっていった。制服であるチマチョゴリが刃物で切り裂かれる事件も相次いだ。

今でも修学旅行として北朝鮮には行くが、最近は朝鮮学校には北朝鮮だけでなく韓国や日本など多国籍の学生たちが通うようになった。国籍は違ってもルーツは同じだ。朴監督は「今回の映画で、日本で生まれ育ったが同じ同胞であることを伝えたい」ともした。

◆北朝鮮・平壌(ピョンヤン)国際映画祭からも招待

今回の映画は20日に北朝鮮で同時に開幕する北朝鮮唯一の国際映画祭である第17回平壌国際映画祭にも招待された。韓国を訪れる朴監督の他にも製作スタッフが北朝鮮を訪問する予定だ。DMZ国際ドキュメンタリー映画祭のイ・スンミン・プログラマーは「韓国国籍の監督の作品が韓国と北朝鮮の映画祭で同時期に上映されるのは初めてに等しい」と話した。

「海外同胞は北朝鮮がビザを発行してくれるため、すでに2010年と2014年の映画祭をはじめ、何度も北朝鮮に行った」という朴監督は「今回の映画を南北双方の民族が一緒に見ることを希望したが今回の招待に多くの同胞が喜んだ」としながら「南と北の観客の反応が気になる」と話した。

朴監督は、朝鮮学校の生徒による北朝鮮訪問記を撮影した『蒼のシンフォニー』で3年前に米国ダラス・アジアン映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞するなど20代の時に初めてカメラを手にして以来いままで、在日同胞問題一筋で取り組んできた。映画の副題「ニジノキセキ」に刻んだ願いをこのように説明した。「日本語の『きせき』には奇跡・輝石(鉱物の種類)・軌跡という3つの意味があります。虹は過去と現在・未来を繋いてくれる橋であり、ウリハッキョを守った奇跡、輝石のような子供の明るい笑い、同胞が歩いてきた足跡としての軌跡というすべての意味を込めました。この映画を通じてより多くの人と話をしたいです」



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